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静岡地方裁判所 昭和58年(た)1号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一  本件公訴事実及び再審公判に至る経緯

一  公訴事実

本件公訴事実の要旨は、「被告人は、昭和二九年三月一〇日静岡県榛原郡初倉村湯日字下原二六四二番地の三の山林内において、A子(昭和二二年一一月二二日生)を押し倒して馬乗りとなり姦淫し、よって同女に対し外陰部裂創等を被らせたうえ、さらに、犯行の発覚を防ぐために同女を殺害せんことを企て、即時同所において、同女の頸部を両手をもって締め付け窒息死させて殺害の目的を遂げた」というものである。

なお、右犯行場所は、静岡県榛原郡初倉村坂本沼伏原四九二五番地と起訴状において主張され、後記の確定裁判を通じて同様に認定されていたが、検察官は第五回再審公判期日に右主張が誤りであったとして訴因の変更を請求し、裁判所は第六回再審公判期日において右変更を許可した。

弁護人は、再審公判が一般の刑事公判とは目的、性格を異にし、再審公判において、検察官が被告人に不利益な訴因の変更を請求することは許されないと主張する。しかしながら、再審公判においてあらゆる形の訴因の変更がすべて許されるかどうかは別にして、本件において、変更の対象となったのは、罪となるべき事実そのものでなく、訴因を特定させる一手段である犯罪の場所に関するものに過ぎず、さらには、検察官が確定審で主張した犯行場所がA子の死体発見場所であり、再審公判で訴因を変更して主張する犯行場所も右死体の発見現場と同一で、訴因の変更請求が地名表示の誤りを発見したことに基づくものであることも、検察官の釈明等により明らかであって、本件のような訴因変更手続による訴因の特定事実に関する表示の訂正は、訴因の同一性を害したり、被告人の防御に影響を及ぼすことが全く考えられず、訴因の変更を許さないとする合理的な根拠がないから、弁護人の主張は理由がない。

二  確定裁判と各審級における判断

被告人は、昭和二九年六月一七日静岡地方裁判所で強姦致傷、殺人罪により起訴され、昭和三三年五月二三日死刑の有罪判決を受け、控訴、上告を申し立てたが、昭和三五年二月一七日東京高等裁判所(以下右各裁判所を確定第一審、確定第二審という)で、同年一二月一五日最高裁判所で、控訴、上告をそれぞれ棄却され、さらに判決訂正の申立てをしたが、昭和三六年一月二六日これも棄却され、右第一審判決が確定した。各審級における判断は次のとおりである。

1  確定第一審の認定事実

確定第一審が認定した事実は

(一) 被告人は、本籍地で履物商を営んでいた小林半左衛門とその内縁の妻赤堀まさ江との間に出生したものだが、生来知能程度が低く、軽度の精神薄弱であって、学業も振るわず、昭和一九年三月土地の国民学校高等科を卒業後、川崎市の東北振興精密株式会社や日本光学島田工場で工員として働いているうちに終戦を迎え、本籍地の実家に戻って土工などをしていたところ、しばしば窃盗の所為があって刑に服し、昭和二八年七月ころ最後の刑を終えて再び実家に戻った。

(二) 被告人は、その後兄嫁の実家の手伝いをしたり、日雇い労務者として働いていたが、その間諸処を放浪して歩くこともあり、昭和二九年一月下旬から同年二月下旬ころには、二回くらい上京したことがあった

(三) そうして、被告人は、同年三月三日家人から職を探すようにいわれ、自宅(右本籍地の実家)を出て東方に向かったが、職を求めようとしないで、物貰いをしながら、放浪生活を続け、同月七日ころには、島田市近郊に立ち戻って、同月九日夜は、志太郡大長村伊太字東川根薬師庵に仮泊した

(四) 被告人は、翌一〇日午前一〇時ころ島田市幸町にある快林寺の墓地に赴き、同所で供え物を探したが見当たらず、墓地から本堂前の広場に行ったところ、同所にある島田幼稚園講堂で遊戯会が催されており、その入口付近で女児の遊戯を見ているうち、にわかに情欲にかられ、幼女を連れ出して姦淫しようと考えるに至った。

(五) そこで、被告人は、付近を見回したところ、たまたま本堂石段付近で他の女児と遊んでいるA子(昭和二二年一一月二二日生、当時六歳三か月)を見付け、右講堂前に出されていた売店で菓子を買い与えたうえ、「いいところへ連れて行ってやる」と誘い、同日正午ころ同女を伴って島田駅前道路から、同駅線路下のトンネルを経て、大井川旧堤防を越え、横井グラウンドを横切って大井川新堤防に出て、同女を姦淫するのに適当な場所を探したが見当たらず、川原を下流に向かって旧堤防に登り、同女を背負ったまま、蓬莱橋を渡って右折し、さらにその道の途中から静岡県榛原郡初倉村坂本沼伏原四九二五番地の人目のつかぬ山林に至った。

(六) 被告人は、ぼんやりしているA子をその場に下ろすや、情欲を押さえることができず、やにわに同女をその場に押し倒し、泣き叫ぶ同女の下半身を裸にし、その上に乗りかかって姦淫し、その結果同女に外陰部裂創等の傷害を負わせたが、同女がなおも泣き叫んで抵抗し、意のままにならないのでひどく立腹し、同女を殺害して、併せて前記犯行の発覚を免れようと決意し、付近にあった拳大の変形三角形の石を右手に持って同女の胸部を数回強打し、両手で同女の頸部を強く締め付け、同日午後二時ころ同所において、同女を窒息死させた

というものである。

2  被告人及びその弁護人の主張に対する確定第一審の判断

被告人は、確定第一審の公判において捜査段階での自白を翻して犯行を否認し、犯行当時は物貰いをしながら東京より横浜に歩いている途中で、犯行場所である島田市近郊にはいなかったとのアリバイを主張し、また確定第一審弁護人は、被告人のアリバイを主張するほか、被告人の自白調書は、捜査官が捜査の過程で知り得た知識に基づき、不当に被告人を追求して虚偽の供述を余儀なくさせ、そのため、経験則に反する点や客観的証拠と合致しない点が多数あって真実性がないばかりか、本件犯行当時被告人を目撃したという者の供述にも疑わしい点があり、結局、本件犯行が被告人の所為によるものであることを認定するだけの証拠がないと主張したが、確定第一審裁判所は次の理由で前記確定判決の事実を認定した。

まず、アリバイの点について、被告人が昭和二九年三月七日ないし九日には東京にいたと供述する事実の中に、被告人がいつの日かに直接体験した事実があると認められるとしながら、右日時ころに島田市近郊で被告人を目撃して言葉を交わしたという証人松浦武志及び同小山睦子の各供述を検討し、その信用性を認め、これに対し、被告人の主張するアリバイは徒歩で東京へ行くための道順及び行程が不自然で信用できず、被告人が昭和二九年三月七日ないし九日ころは島田市近郊にいたものと判断し、被告人の主張を排斥した。

次に、被告人の捜査官に対する供述について、その供述中の犯行日の被告人の行動は、終始ほぼ一貫しているものの、犯行日前後の行動に関する部分は再三変化していて、とりわけ三月一二日の行動は事実とまったく異なっているとしながら、被告人の右供述は、捜査官による記憶の喚起あるいは供述の是正がなされたとしても、犯行の重要部分について、例えば、A子(以下被害者という)に胸部損傷を加えた時期について、同女の死体解剖の結果を記載し、その死因を推定している解剖所見と相反し、捜査官が既得の知識に基づいて供述を強要したとは考えられず、任意になされたと認められ、その内容は、裁判所の命じた鑑定の結果とも一致し、また、凶器である石が被告人の供述により初めて判明したこと、被告人が被害者の着衣等を示された際に動揺したこと、留置場内で悔悟の発言をしたことなどを併せ考えると、その信用性が高いと判断した。さらに、犯行当日被告人を目撃したとする者の供述にも特段の疑点はないとして、前記各事実を認めた。

3  控訴理由に対する確定第二審の判断

被告人は、右判決に対し控訴したが、確定第二審は、確定第一審と同様に、被告人の捜査官に対する自白が強制、誘導に基づくものと疑う余地はなく、その自白内容も顕著な客観的事実と矛盾したり、条理に反し信憑性を欠くとはいえず、また、証人松浦武志、同小山睦子の各証言は信用でき、被告人のアリバイを認めることはできないとして、その控訴を棄却した。

4  上告理由に対する最高裁判所の判断

上告趣意書では、被告人の自白が警察官の強制、脅迫、誘導に基づくもので、憲法三八条二項により証拠能力がないこと、罪体と被告人を結び付ける証拠が被告人の自白以外になく、被告人を有罪とすることは憲法三八条三項の補強法則に違反すること、被告人にはアリバイがあることの主張がなされたが、最高裁判所は、被告人の自白について強制等の事実を確認するに足りる証拠がなく、第一審判決には被告人の自白のほか多数の補強証拠が挙示されており、その余の主張も適法な上告理由に当たらないとして、上告を棄却した。

三  再審請求の経緯

1  第一次再審請求

被告人は、昭和三六年八月一七日、静岡地方裁判所に再審を請求した。その理由の要旨は、被告人のアリバイを立証する新証拠として、昭和二九年三月一二日ころ被告人と行動を共にした岡本佐太郎を証人として取り調べられたいというものであったが、同裁判所は、岡本佐太郎の所在が不明で容易にその取調べをなし得ないのであるから、右再審請求は不適式なものであるとして、昭和三七年二月二八日付け決定でこれを棄却した。

この決定は、即時抗告の申立てがなく確定した。

2  第二次再審請求

被告人は、昭和三九年六月六日静岡地方裁判所受付の再審請求書をもって、同裁判所に再審を請求した。その理由の要旨は、本件犯行現場付近の大井川の川原に遺留された犯人の足跡は、被告人の足跡でないこと、凶器とされた石は、被告人の自白によって初めて発見されたものではなく、本件に全く無関係な石で、本件犯行当時犯行現場に存在していなかったことを、それぞれ証明できる明らかな証拠を新たに発見したというものであったが、静岡地方裁判所は、被告人の申出にかかる各証拠は刑事訴訟法四三五条六号所定の事由に当たらないとして、昭和三九年一〇月三日付け決定でこれを棄却した。

この決定に対して、被告人の弁護人から即時抗告、特別抗告の各申立てがあったが、東京高等裁判所は、昭和四〇年一一月二五日付け決定で、最高裁判所は、昭和四一年二月八日付け決定で、各抗告をいずれも棄却した。

3  第三次再審請求

被告人は、昭和四一年四月一五日、静岡地方裁判所に再審を請求したが、同裁判所は、右請求書には刑事訴訟規則二八三条所定の資料の添付がなく、また、再審理由の記載を欠如する不適式なものとして、昭和四一年六月八日付け決定でこれを棄却した。

この決定は、即時抗告の申立てがなく確定した。

4  第四次再審請求

本件再審請求は、昭和四四年五月九日、被告人から静岡地方裁判所に申し立てられた。その理由の要旨は、被害者の陰部に陰茎を半分くらい挿入しただけでは被害者の陰部の損傷は起きないこと、凶器とされた石による殴打では被害者の胸部損傷はできないこと、被害者に加えられた犯行の順序は、まず強姦し、次いで胸部を殴打した後、扼殺したというものではないことをそれぞれ証明し、被告人の自白調書の信用性を否定する、明白かつ新規な証拠を発見し、さらに、被告人のアリバイを補強する多くの証拠を発見したなどというものである。

静岡地方裁判所は、昭和五二年三月一一日付け決定で本件再審請求を棄却した。右決定は、被害者の陰部に陰茎を半分くらい挿入し、石で被害者の胸部を殴りつけたとする被告人の供述に合理的な疑いをいれることはできないものの、被害者の陰部及び胸部の右損傷は頸部扼殺の後に生じたものであるとする合理的な疑いがあるとして弁護人の主張を一部認めながら、なお、確定裁判で取り調べられた各証拠、特に、被告人の留置場内での悔悟の発言、被害者の着衣等を示された際の動揺、被害者が生き返って来る気がし、恐ろしくて夜寝られないとの告白及び勾留係裁判官と知りながらした自白の内容、凶器である石が被告人の供述により初めて判明した状況並びに犯行当日の犯人目撃者の供述を考慮すると、確定第一審が認定した「被告人が被害者を姦淫しようと考え犯行地へ連行した事実」「被告人が被害者の頸部を強く締め付け右扼頸により被害者を窒息死させた事実」「被告人が被害者の陰部に自己の陰茎を挿入した事実」及び「被告人が本件石を右手に持って被害者の胸部を数回強打した事実」はゆるがず、いまだ被告人の自白調書の信用性を否定することはできず、また、弁護人が提出した証拠によっても、本件犯行当日の被告人のアリバイは認められず、かえって、その中には、被告人のアリバイ供述と調和しない証拠もあるなどと説示して、右請求を棄却した。

この決定に対して、被告人及び弁護人から即時抗告の申立てがあり、抗告審において、本件犯行現場付近の大井川の川原に遺留された犯人のものと思われる足跡が皮短靴によるものであり、被告人の自白するゴム半長靴の足跡と一致しないこと、被害者の死後経過時間が相違し、したがって犯行日が被告人の自白と異なること、凶器とされた石は被告人の自白により発見されたものでないことをそれぞれ証明する新証拠が発見され、被告人に無罪を言い渡すべきことが明らかになった、との主張が追加された。

抗告審は、昭和五八年五月二三日付け決定で、原棄却決定を取り消し、静岡地方裁判所に事件を差し戻した。その理由の要旨は次のとおりである。すなわち、原棄却決定の判断中、被害者の陰部及び胸部の各損傷が頸部扼殺の後に生じた合理的な疑いがあるとの判断部分を是認したが、被害者の陰部に陰茎を半分くらい挿入し、石で被害者の胸部を殴りつけたとする被告人の自供に合理的疑いがないとした判断部分は是認できないとしたうえ、犯行後の足どりに関する被告人の自白調書中にも、明らかに客観的事実に反する供述があり、加えて、目撃者の供述が、被告人との同一性について疑義をいれる余地のないほどの確実性はなく、右供述だけで被告人の犯行を確定することはできないと述べ、原棄却決定が、犯行順序に関する被告人の自白に合理的な疑いが生じたとしながら、自白の信用性の欠如をこの点のみに限定したのは早計に過ぎ、さらに、新証拠につき、検討、洞察を深め、凶器とされた石の発見経過、右石の血液、リンパ液その他の体液付着の有無、足跡等に関する証拠を取り調べ、審理を尽くすならば、疑わしきは被告人の利益にとの原則に従い、確定判決の有罪の認定を覆す蓋然性もあり得るから、原棄却決定が再審請求を棄却したのは審理不尽の違法がある、というものである。

差戻しを受けた静岡地方裁判所は、昭和六一年五月二九日、大要、次のとおり述べて再審開始の決定をした。すなわち、大井川の川原に遺留された足跡、死後の経過時間及び被告人のアリバイに関する弁護人の各主張は認めることができないが、新証拠によって、被害者の陰部及び胸部の各損傷は頸部扼殺の後に生じたとの合理的な疑いがあり、さらに、被害者の陰部に陰茎を半分くらい挿入し、凶器とされた石で被害者の胸部を殴りつけたとの供述には不自然、不合理なところがあり、これらの点に関する被告人の自白が真実と合致しないのではないかとの疑いが生じ、被告人の自白調書は数々の疑点を内在させることが明らかで、確定判決が掲げる理由をもってしては右自白調書の信用性を肯定する根拠とはできないというものである。

右決定に対し、検察官から即時抗告の申立てがあったが、東京高等裁判所は、昭和六二年三月二五日、陰部損傷に関する原決定の判断は是認できないとしながら、胸部損傷の成傷用器及びその時期、凶器とされた石の発見経過などの判断は結論において是認できるとして、抗告を棄却した。この決定に検察官から特別抗告の申立てがなく、再審開始決定が確定した。

第二  本件事案の概要

一  被害者の死亡

〈証拠〉によると、静岡県島田市幸町に所在する快林寺の住職五藤大善は、昭和二九年三月当時約二〇〇名の園児を抱える島田中央幼稚園を快林寺境内で経営していて、同月一〇日午前中から右幼稚園で遊戯会を開催したこと、当日幼稚園の講堂では、園児らが遊戯をし、その父兄も見学に来ていて、境内では、園児の父兄による売店が開かれていたほか、山門の外側で一般の露店も開かれており、境内がかなり混雑していたこと、被害者A子(昭和二二年一一月二二日生、当時六歳三か月)は同幼稚園の園児であり、昭和二九年三月一〇日午前一一時ころ母親の下駄を履いて幼稚園に出かけたが、午後になって姿が見えなくなり、同じく右幼稚園の園児であり、被害者と遊んでいた鈴木鏡子らの話から、被害者が何者かに幼稚園より連れ出されたことが判明し、地元の警察にその旨の届出がなされたこと、右届出を受けた警察では、同月一二日に被害者と犯人らしい男性の姿を目撃したという中野ナツ、鈴木鉄藏らの供述を得て、被害者の行方を捜索した結果、同月一三日午前九時四〇分過ぎころ、同県榛原郡初倉村湯日字下原二六四二番地の三(現在は島田市内)の山林で被害者の死体が発見されたこと、死体発見場所は、島田市西南を貫流する大井川に架設された木橋通称蓬莱橋を島田市側から渡って、その南端から右に、初倉村の茶園に通じている幅員約二メートルの坂道を登り、一〇〇メートル余り入った道路右側の三五度くらいの北下がりの傾斜面をさらに約一七〇メートル西進した所にあり、付近は、植林後一五、六年経過した松林で、被害者の死体発見地点はやや開けているものの、大人の背丈くらいの雑木及び笹が密生しており、歩行がやや困難であること、被害者が発見された際、現場から約五〇メートル離れた地点で、被害者の着用していた薄桃色メリヤス裏ネル肌着シャツ一枚(昭和六二年押第一一〇号の一)が発見されたこと、被害者は、北下がりの傾斜面で、おおむね、頭部を南方に、下肢を北方にし、仰向けに倒れて死亡していて、両手をやや左右に開き、右下肢は膝を曲げたまま体の外側に開かれ、左下肢は外側にほぼ伸ばされており、下着が外され、腰部には化繊緑色子供ワンピース一着(昭和六二年押第一一〇号の四)が両袖を脱し、捲きつけられ、左大腿部に木綿白子供用ズロース一枚(同押号の二)が載せてあり、頭部には格子縞のネル子供用ズロース一枚(同押号の三)があって、その下から鼻口と口唇が覗かれ、首に桃色毛糸カーディガン一枚(同押号の五)を捲き上げるようにしてあり、胸腹部と両肢大腿部は露出し、右化繊緑色子供ワンピースの裾裏側には若干の脱糞が付着していたこと、死体は現場から搬送され、蓬莱橋南岸付近の大井川の川原に移され、死体解剖は、鈴木完夫医師の執刀により、昭和二九年三月一三日午後二時ころから約二時間にわたって、右川原で行われたこと、以上の事実がそれぞれ認められる。

二  死体の状況

1  鈴木解剖所見

〈証拠〉によると、次の(一)ないし(六)の各事実が認められる。

(一) 被害者の身長は約一メートルで、体格は年齢に比しやや良好である。体温は全く厥冷し、硬直が全身の関節に認められた。硬直の度合は中程度で、上肢は硬直が解けつつあり、下肢も解け始まっていた。全身の皮膚は軽く鳥肌を呈していると共に蒼白である。背部に死斑を認めるが、それは比較的淡く、しかもその範囲が狭い。死斑は暗赤色でなく、やや鮮紅色であった。四肢には、特記すべき異常所見がなく、死斑らしいものも認められなかった。

(二) 顔面は蒼白で眼裂は閉じ、眼球は柔軟である。右眼瞼、眼球結膜は蒼白ではあるが、針頭大の溢血点が多数認められた。左眼球結膜は蒼白であり、左眼瞼結膜にも右と同様に溢血点が認められた。角膜は共に軽く混濁し、瞳孔は左右同大で散大している。眉間部において、右上方より左眉毛内端に至る長さ2.5センチメートル、幅一ないし1.5センチメートルの線状の表皮剥脱があり、赤褐色に革皮様化していた。その下方0.5センチメートルの部分に、横に並んだ二個の胡麻粒大の革皮様化した表皮剥脱がある。眉間部は軽微ではあるが腫脹している。しかし、その色調に変化はない。左鼻腔に小量の乾血が付着するほか、鼻に異常所見は認められない。

左頬部において、上方は左鼻翼、下方は上口唇の粘膜移行部に至る範囲の上下に3.7センチメートル、左右に四センチメートルの類球状の組織が欠損し、深さは約一センチメートルある。その創縁は凹凸不整である。創底も不整であり、脂肪組織で終っている。創縁創洞付近に出血は認められない。この組織の欠損は、被害者の死後に小動物が与えたと思われる。

口唇は蒼白で、口腔内に出血等の異常は認められない。

(三) 頸部において、甲状軟骨の上方約2.5センチメートルに、正中線よりやや右上方に向い、一辺が2.3センチメートルと0.7センチメートルの表皮剥脱があり、褐色に革皮様化している。この右端の部分には長さ0.3ないし0.6センチメートルの僅かに弧状を呈した淡赤色の軽い表皮剥脱が四個あって、その配列は不規則である。甲状軟骨の上方約1.8センチメートルに、横走する長さ一センチメートル、幅0.1センチメートルの濃赤色の表皮剥脱があるが、革皮様化していない。これと甲状軟骨との中間部は全般的にやや赤色を呈している。その他頸部に異常がない。なお、鈴木完夫医師の前掲鑑定書中には、甲状軟骨上方の褐色に革皮様化した右表皮剥脱について、「革皮様化を示すも表皮剥脱は認められない」との記載があるが、革皮様化とは表皮剥脱を生じた部分が死後乾燥し、黄褐色から赤褐色もしくは暗褐色調を呈するようになり、しかも、なめし革のように硬化している状態を示す用語であり(九州大学名誉教授牧角三郎作成の昭和六〇年二月一日付け鑑定書・検一〇)、表皮剥脱の認められない革皮様化なる概念はありえないものであるところ、鈴木完夫医師の右鑑定書中の他の部分に、「革皮様化を認め、表皮剥脱を伴い剥脱の方向は上方より左下方に向ふ」とか「類四角形の褐色の革皮様化を」「認められる」「表皮剥脱を伴い方向は左方に向ふ」との表現があり、鈴木完夫医師は、表皮剥脱の周辺部に捲れた形で残存している表皮片をも「表皮剥脱」と述べていると思われ、右「表皮剥脱は認められない」との意味は、革皮様化した表皮剥脱部の周辺部に残存する表皮片がないとの意味だと考えられる(牧角三郎教授作成の昭和六〇年二月一日付け鑑定書・検一〇)。

頸部の皮膚を剥離すると、前頸部の革皮様化した皮下には極めて軽度な出血が認められるが、筋肉内に出血は認められない。喉頭、気管及び食道粘膜に異常がなく、喉頭の諸軟骨に骨折は認められない。気管内には少量の気泡を含む血液少量を認めた。

(四) 胸部において、左乳頭(乳嘴)の下方に上下に並んで、それぞれの一辺が0.7センチメートルと1.0センチメートルの二個の丸みを帯びた正方形様の表皮剥脱が認められ、褐色に革皮様化している。この上方のものはその上半分が第四肋骨に重なり、下方のものは下半分が第五肋骨に重なる形である。下方の表皮剥脱の内側に接続するようにして、同様に第五肋骨に重なる形で、横の一辺が2.0センチメートルと縦の一辺が0.7センチメートル大の革皮様化した表皮剥脱があるが、腫脹していない。このすぐ下方の第五肋骨下縁付近に横二センチメートル弱の半胡麻粒大の表皮剥脱群が、上方に半米粒大の表皮剥脱がそれぞれ存在している(牧角三郎教授作成の昭和六〇年二月一日付け鑑定書・検一〇)。なお、名古屋大学教授勝又義直は、その作成の昭和六二年九月一六日付け鑑定書(検一一一)において、乳頭下方の表皮剥脱について、正方形様というより平行四辺形様であると述べている。

正中線を切開して、胸壁の皮膚筋肉を剥離すると、左乳頭下方の革皮様化した表皮剥脱の内部は表皮と皮下脂肪層を残すのみで、大胸筋、前鋸筋は挫滅して離開している。左胸部の第四肋間で、胸骨左縁より3.5センチメートルの部分から第四肋間に沿い左上方に約四センチメートルの範囲の肋間筋が断裂し、肋膜腔に穿孔しているが、第四肋間の損傷部を一見したところでは、筋肉内の凝血が認められない。断裂部の創縁は凹凸不整であり、創底からは肺が見える。

なお、剥離した胸壁を裏側から見ても、肉眼でわかる出血はなかった。革皮様化した表皮剥脱下の皮下組織等を切開して、その出血の有無を調べてはいない。また、肋骨骨膜の表面に異常は認められなかったが、骨膜の変化についても、第四肋骨の下縁と第五肋骨の上縁に付着した筋肉を切開して子細には検討していない。

胸腔を開くと、胸線の外表に溢血点は認められない。肺の膨張は良好である。左右両肺は、淡い桃色で後壁に近いほど紫色となり濃色となる。右肋膜腔内に異常浸出液はなく、左肋膜腔内には淡赤色でやや透明な液体少量を認めた。左右とも肺肋膜下に針頭大の溢血点を多数認めた。左肺上葉の前下縁より約三センチメートル上方の部分で肋間筋の断裂部にほぼ対応した位置が小指頭大に濃赤紫色を呈し、下葉の後下縁の部分も拇指頭大に濃赤紫色を呈し、いずれも膨大している。肺実質部の表面に損傷は認められない。膨大した部分を切開すると、内部に出血を認めるが凝血は認められない。肺の割面はやや濃色であり、血量はやや多い。肺の含気量は普通である。胸部の肋骨内面に異常はなく、肋骨に骨折がない。心嚢を切開すると、心嚢液に異常がなく、心臓は屍拳大で硬く心外膜下に斜頭大の溢血点が数個あった。心冠動脈に異常がなく、左心室を切開すると、暗赤色流動性の血液少量を認めた。右心室内容も同様である。心筋に特記すべき異常はなく、内膜にも異常がない。心臓を摘出すると、心臓周囲の大血管より極めて少量の凝血を含む暗赤色流動性の血液が多量に流出した。大血管に特記すべき異常を認めない。

腹腔内に出血又は異常浸出液がない。胃は膨満している。腸管は小指大の太さで、ガスの発生はみとめれらない。胃の外表に異常がなく、切開すると、内容物は約二〇〇ないし三〇〇グラムで米、麦飯と甘藷があり、米、麦飯は胃液と十分に混合しているが完全に原型を保ち、甘藷はほとんど原形を保っていない。腸管内には全般に少量の固形内容物を認めた。肝臓は紫褐色で表面に異常がなく、割面は暗茶褐色で肉眼的に構造に異常がなく、血量が多い。脾臓は淡紫色で外表に異常ないが、針頭大の溢血点らしきものが多数あった。大きさは三辺が八センチメートル、4.5センチメートルと二センチメートルで、割面の構造に異常がなく、僅かに血量が多い。腎臓にも異常がなく、膀胱は空虚である。直腸に異常を認めない。臓器内の血量は総じてやや多い程度である。

(五) 外陰部は開し、会陰部より肛門周囲に乾血と共に出血を認めた。外陰部に凝血はない。陰部には高度な裂創がある。膣前庭、小陰唇は形が無くなっていて、大陰唇の大部分も表皮がなく、膣腔(膣孔)周囲において、上下に約四センチメートル、左右に約三センチメートルの卵型に皮下組織が露出している。右大陰唇の露出した皮下組織面に、約一センチメートルの筋肉内に達する創がある。膣口から肛門に約0.5センチメートルの部分まで裂創があり、後膣壁に続き、左ドウグラス氏窩に向け、膣穹隆部まで右裂創が続いている。膣穹隆部の裂創内に凝血があった。鈴木完夫医師は、その検察官に対する昭和六〇年一〇月一八日付け供述調書の謄本(検九)において、この凝血はその大きさの記憶が不鮮明であるが、半小指頭大ではなかったかと思うと述べている。裂創部に正常な膣粘膜はなく、筋肉が露出している。陰部を外部から検査し、膣腔内に小子宮鏡を挿入して観察したが、膣粘膜下の組織と会陰部の組織にいわゆる組織間の出血は発見できなかった。膣内に陰茎様のものが挿入されたとすると、組織間出血ができ易い恥骨縫合部の裏側を切開して検査していない。膣内に精虫は認められない。

なお、表皮欠損部分の辺縁部に、動物の歯によると思われる痕跡はない。また、陰部からの出血は、大きな血管が破れたわけでないから、血がほとばしったとは考えられない。

子宮、卵巣に異常なく、肛門は閉鎖している。

(六) 被害者の右眼瞼、右眼球結膜及び左眼瞼結膜に針頭大の溢血点多数あり、血液が暗赤色流動性で、頸部に前記損傷があることからすると、被害者の死因は窒息死と認められる。また、その死体は、死後三昼夜くらい経過していて、昭和二九年三月一〇日ころに死亡したと推定できる。

以上の事実が認められる。

2  鈴木解剖所見に対する異論

なお、右鈴木所見に対しては、いくつかの疑問が呈示されているが、そのうち、前頸部から左右側頸部方にかけて帯状の変色部があるとする意見(藤田学園保健衛生大学教授内藤道興作成の昭和六〇年八月二〇日付け意見書・弁護人請求の証拠番号六〇、以下弁護人請求の証拠番号を弁という)、左胸部の半胡麻粒大の表皮剥脱群の左右両端に交差する線状創もあるとする意見(証人兼鑑定人上田政雄に対する裁判所の昭和四九年一二月一〇日付け尋問調書・弁一七)、外陰部の損傷は動物による咬傷の可能性があるとの意見(京都大学教授上田政雄作成の昭和四九年一一月一日付け鑑定書・弁一六及び内藤道興教授作成の昭和六〇年八月二〇日付け意見書・弁六〇)、膣穹隆部の凝血は半乾状血液と思うとの意見(元東京医科歯科大学教授医師太田伸一郎作成の昭和六〇年五月一二日付け意見書・弁五八)などがあるが、これらの意見は、いずれも、被害者の死体を直接に見分して提出されたものではなく、解剖写真などを根拠に推測したもので、一方、鈴木完夫医師は、前頸部については、被害者の首に着衣があったので、着衣による絞頸を念頭に置いて死体を検案したが、その形跡がなかった(鈴木完夫の検察官に対する昭和六〇年一〇月一八日付け供述調書の謄本・検九)、左胸部表皮に線状創の存在した記憶はない(証人鈴木完夫に対する裁判所の昭和五九年五月一六日付け尋問調書・検五)、被害者の左頬部に、小動物が与えたと思われる損傷があり、動物による咬傷の場合には創の辺縁部に歯の形態を示す痕跡があるのに、外陰部にそのようなものはなかった(証人鈴木完夫に対する裁判所の昭和五九年五月一六日付け尋問調書・検五)、あるいは、凝血と半乾状血液との区別は容易であり、膣穹隆部まで膣口の開が及んでいなかったので乾燥する理由がない(鈴木完夫医師作成の昭和六〇年七月四日付け意見書・検八)などと述べ、右異論をいずれも否定しているのであって、司法警察員小泉芳一(補助者山田正義)作成の昭和二九年三月一三日付け検証調書(職一五)及び鈴木完夫医師作成の昭和二九年三月二五日付け鑑定書(職一六)中の被害者を撮影した写真を検討しても、直接死体の解剖を担当した鈴木完夫医師の前掲所見を排斥する理由がなく、鈴木所見に対する右各異論は採用することができない。

また、被害者の死後経過時間について、一昼夜前後又は二昼夜以内と判断する大阪市立大学教授助川義寛作成の昭和五三年四月二二日付け鑑定書(弁二九)と、一日半ないし二日くらいと推定する北里大学教授船尾忠孝作成の昭和五三年一〇月四日付け鑑定書(弁三〇)がある。助川義寛教授は、被害者の角膜の混濁が軽く、瞳孔を透視できたこと、皮膚が鳥肌を呈して立毛筋の死後硬直が残存していると認められること、胸腹腔内に死後滲出液がなく、腸管にガスの発生もなく、腐敗が進んでいないことなどから、平均気温が摂氏六度以上では、死後三昼夜くらいとはいえないと述べている。船尾忠孝教授は、死後硬直及び角膜の混濁の各程度、被害者が子供であることを根拠として、死後三昼夜くらいすることは妥当でないと述べている。しかしながら、被害者の姿が最後に確認された昭和二九年三月一〇日から死体の発見された同月一三日朝方までは、三昼夜であるものの実質はほぼ二日半であり、〈証拠〉によると、静岡県榛原郡金谷町二七六九番地の農林省茶業試験場で観測された気象状況は、昭和二九年三月一二日において雨雪がなく、最高気温15.2度(以下温度の単位は摂氏)、最低気温4.4度(平均9.8度)で日中比較的暖かかったと思われるものの、同月一〇日は7.3ミリメートルの雨雪があり、最高気温9.1度、最低気温0.2度(平均4.7度)と冷え込み、翌一一日も7.7ミリメートルの雨雪があり、最高気温10.4度、最低気温2.7度(平均6.6度)で、同月一三日の雨雪はないものの、最高気温が10.7度、最低気温マイナス0.8度(平均5.0度)であり、同所は被害者の死体発見現場の西方に約六キロメートル離れ、大井川南岸からさほど遠くないところに位置し、また、右農林省茶業試験場の南方で被害者の死体発見現場からほぼ同距離にある静岡県茶業試験場の気象記録も、おおむね同様の結果を示していると認められること、被害者は北下がりの傾斜面の松林内で裸のまま放置され、陽光の多くがとどかないところで雨に濡れていたと思われるが、この点、鈴木完夫医師は、検察官に対する昭和五四年七月一四日付け供述調書の謄本(検三)において、気象状況などをふまえながら、現場の風通しが良いこと、角膜の混濁について、被害者の眼裂は閉じていたことなどから、助川義寛教授及び船尾忠孝教授の見解に反対し、死後三昼夜経過しているとみることが相当であると述べている。船尾忠孝教授が、「死後経過時間判定の根拠となる死体現象は、種々の条件、例えば年令、体格、栄養状態などの内的条件ならびに死体の置かれている環境、気温、湿度などの外的条件によって影響されるので、死後経過時間の推定に際しては、多くの場合剖検所見の観察と共に剖検者の経験を加味して該時間を推定するのが通常である」と述べている(船尾忠孝教授作成の昭和五三年一〇月四日付け鑑定書・弁三〇)ことを併せ考えると、鈴木完夫医師の所見のとおりの死後経過時間が認定できると思われる。

三  捜査経緯と被告人の自白

1  捜査経緯

〈証拠〉によると、次の(一)ないし(四)の各事実が認められる。

(一) 警察当局では、本件を変質者による犯行とみて、素行不良者の洗い出しに力点を置く一方、モンタージュ写真の作成、目撃者らへの聞き込み、大井川川原に残されていた犯人のものと思われる足跡からの履物の割り出しなどの捜査を行い、昭和二九年三月二〇日ころには、被告人が島田市内の須田神社で小学生の女子に手招きしたことが目撃されたことから、被告人を本件容疑者の一人として加えることとした。なお、同月一四日付け新聞は、被害者の死体が発見された当日の同月一三日午後五時金子国警県本部刑事部長により、被害者の死因は暴行による出血死で死亡時刻は一〇日夕刻であるとの解剖結果が発表され、犯人は二四、五歳くらいの頭髪がボサボサの油気のない色黒の男性で、茶色ジャンパーにゴム半長靴を着用していたとの記事を報道している。

(二) 本件容疑者は二〇〇ないし三〇〇名にのぼり、取調べを受けた者のうち何名かが逮捕され、犯行を認める供述をする者もいた。被告人は、事件発生から約二か月半後の同年五月二四日午前六時ころ岐阜県稲葉郡鵜沼町で職務質問を受けた。被告人が幼女誘拐の重要参考人として手配されていたことから、島田市警察に連絡が入り、被告人は、同日午後二時ころ稲葉地区警察に、翌二五日午前四時ころ島田市警察に任意同行され、事情聴取を受けた。同月二六日付け新聞には、「島田市署は二五日幼女暴行殺害事件容疑者として岐阜県稲葉地区署に保護された島田市本通り七住所不定無職赤堀政夫(二四)を任意出頭の形で取調べた結果、窃盗三件を自供したので同日午後四時半逮捕、引続き三月三日家出してからのアリバイについて同人の自供にもとづき調べているが、同四時『A子ちゃん殺しの犯人でないと思う』と発表した。同人は本年一月二九日夜島田市祇園町島田女子高校に侵入、生徒の内藤久子さんほか二名からタオル、黒ギャバ生地、手芸材料など(価格計三六〇円)を盗み、足どりについては三月一日家出、汽車で静岡市に行き、静岡から徒歩で東京までいったと自供している。一方警察の調べでは家出したのは三月三日で自供と二日間の食違いがあるが、かなり日がたっているので確実なものと判定できず記憶のズレからみても事件発生日の三月一〇日には東京にいたのではないかと推定、犯人ではないとする材料としている」との記事が掲載された。

(三) 任意同行後、被告人は、実兄宅に戻ることを希望せず、同年五月二五日夕方から三日後の二八日朝まで静岡県榛原郡金谷町の金谷民生寮に入寮して生活したが、同月二八日島田市警察署により窃盗の疑い(島田女子商業高等学校において生徒の所持品衣類等四五点を窃取)で通常逮捕された。被告人は、窃盗事件の事情聴取とともに、被害者が行方不明になった三月一〇日前後の足取りについても詳しく調べられ、同年五月三〇日午後になって被害者を強姦して殺害したなどと自供を始め、同年六月一日強姦、殺人の被疑事実により再逮捕された。

(四) 同日被告人からその着用していた中古鼠色セルジャンバー一着(昭和六二年押第一一〇号の一一)が、同月二日拳大変形三角型石一個(同押号の一〇。以下本件石という)が、同月三日曽根一郎から被告人がかつて着用していたチャック付ジャンバー一着(同押号の一二)及び浅黄色ズボン一本(同押号の一三)がそれぞれ領置された。被告人は同月二日から同月九日まで島田市警察署に留置されていたが、同日静岡刑務所に移監され、弁解録取書を除くと被告人の検察官面前調書はすべて右移監後に作成され、同月一七日になって本件強姦致傷、殺人の公訴事実により起訴された。

以上の事実が認められる。

2  被告人の自白の概要

一件記録によると、本件に関し作成され、裁判所が証拠調べをした被告人の捜査官に対する供述調書は、昭和二九年五月三〇日付けから翌六月一七日付けまで、被告人の勾留質問調書を加えると一九通(職四二ないし五八、職六一、職六二)ある。被告人が検察官にした自白の概要は次のとおりである。

被告人は、昭和二八年七月刑務所を出て、翌二九年藤枝市の食料品店に一週間くらい勤めたり、東京都北多摩郡布田の日活撮影所ステージ工事で二、三日働いたりしてから、島田市に戻り市内の山内燃料店や北川ポンプ店に二月一杯勤めた。三月三日実兄宅を離れ、島田駅から静岡駅まで列車に乗り、それから徒歩で由比町に行き、風呂敷包を鉄道小荷物で実兄宅に送った。農家で物貰いしながら歩き、岩渕まで行って、駅の東の農小屋に泊まった。四日は富士を経て東田子の浦まで行き、駅の西のお宮(大六天王神社)に泊まった。五日は汽車で東田子の浦駅から草薙駅まで行き、下車して用宗まで物貰いをしながら歩き、用宗駅から島田駅まで汽車に乗り、実兄宅に泊めてもらった。家に帰ったのは東京までとても行けないのであきらめて金でももらい出直そうと思ったからである。しかし、実兄に文句をいわれると思い、六日の朝家を飛び出し、島田から徒歩で藤枝、焼津を経て用宗まで行き、用宗駅の西のお宮に泊まった。七日は草薙、清水を経て袖師駅の山の上の農小屋に泊まった。八日に興津を経て由比町に向い、ゴム半長靴を盗み、蜜柑畑で野宿した。九日は興津を通って島田に向かい、夜中に近いころ大長村伊太のお宮に泊まった。一〇日島田市に入り、供え物をもらうため、快林寺墓地の中に入ろうとしたが、お寺の裏門がしまっていて、鍵がかかっていると思い引き返し、ほかの通路から快林寺に入った。快林寺境内には一五、六人の子供がいた。子供を眺めていると、幼稚園の校舎の方で人が大勢集まって何かをし始めた。校舎の中を覗くと、見物人がいて、女の子が歌に合わせて立ったり座ったりする遊戯をしていた。自分は子供が大好きで、女の子の遊びを見ていて、関係したいと思った。境内を歩き、いい女の子がいないか探すと、本堂の上り口の石段で女の子が二人遊んでいた。そのうちの緑色の服の女の子を誘い、紅白の飴玉を買い与え、快林寺から連れ出した。島田駅西側ガードの前で女の子を背負い、ガードを通り抜け橋を渡って一文菓子屋の前を通り、東海パルプ横井工場のコンクリート塀に沿って道を右に進み、大井川の旧堤防を横切り、横井グランドをまっすぐに突っ切り川原に出た。そこは旧堤防から丸見えだったので、新堤防に上がったが、その向こうは川の水が流れていてだめで、新堤防上を大井川下流へ向かって歩き、南の川向こうが人気のない山なので、蓬莱橋を渡ることにした。新堤防を降りて川原を歩き、一〇メートルくらいの流れを横切り、また堤防に上がって松の木の所で立小便した。蓬莱橋の橋番と言葉を交わし、橋を渡って右の細い坂道を登ると、女の子が泣き出し「おじちゃんおうちえ行きたい」などというのでなだめすかしながら約三町行くと、右手にあるかないかわからないような山道があって、そこを約二町行くと、狭いが幾らか平らな場所があったので、女の子と並んで腰を下ろした。両手で女の子の肩を押し倒し、緑色の洋服の後ろを外して頭の方にまくり上げ、下着類も同様にし、薄桃色メリヤス肌着と二つのズロースを脱がせ、女の子の上に乗りかかった。大きな声で泣き叫ぶので洋服の上から女の子の口を左手で押えながら右手を女の子のわきの下に回して押え、陰茎を陰部にぐっと押し入れた。根元までは入らずやっと半分くらい入った。女の子はもがき泣くので目的が達せられそうもなく癪に障り、陰茎を抜いて、右手で石でもないかと探したが見当たらず、足元に石のようなものが見えたので、右足を伸ばしてそれを手元に引き寄せると、握り拳より少し大きい石があり、これを右手に握り、その尖ったところで女の子の胸を数回力一杯殴り付けた。女の子は大きな息をしながら唸り出したので、こうなっては仕方がないと思い、このままにして置けば唸り声で人に見付かってはまずいので、いっそのこと殺そうと思い両手で首を力一杯押しつけた。すると、女の子はぐったりとして死んでしまったようであった。女の子の死体をそのままにして、その薄桃色メリヤス肌着だけを手に持ち、来た道を引き返したが、途中これを川の方に投げ捨て、見付からないよう草むらの中に隠れた。夜になって島田市内に入り、静大分校宿舎付近の農小屋に泊まった。一一日は朝から雨が降っていた。金谷方面に行き、日坂の八幡神社に泊まった。三月一〇日の服装であるが、鼠色ジャンバーを上に着て、下にチャック付ジャンパー、白木綿ワイシャツを着て、ズボンは上に水色木綿ズボン(紅白の縦縞のあるもの)と下に紺サージズボン、その下に国防色半ズボンを重ねて穿き、褌をしていた。履物は八日ころ由比町で盗んだ半長靴である。事件の自白をしたが、警察官に殴られたとか蹴られたとか無理な調べは受けていない。

四  争点

本件再審開始決定に対する検察官の抗告を棄却した東京高等裁判所昭和六二年三月二五日付け決定は、被害者の胸部損傷の時期が扼頸以降ではないかとの合理的疑いがあり、自白の犯行順序とは異なり、また本件石の凶器性にも疑問があり、それが「秘密の暴露」とはいえず、自白に信用性がないとした。再審公判において、検察官は、これを争って新たに法医鑑定関係のものを中心に証拠を提出し、これに対し、弁護人は、その妥当性を争うほか、さらに、右東京高等裁判所の決定において排斥された、陰部損傷の時期が扼頸以降であり、その損傷が被告人の自白と一致しないとする主張、再審開始決定で退けられたアリバイに関する主張、右両決定で退けられた被告人の自白の任意性に関する主張などを繰り返しているので、以下、これらの点につき検討する。

第三  判断

一  自白調書の証拠能力

弁護人は、被告人が本件の取調べを受けた際に、警察官から「お前はやっている」「白状しろ、白状しなければ二年も三年も留置場にぶち込んでおくぞ」と怒鳴りつけられ、あるいは、頭や背中を小突かれたり、首筋を押さえ付けられ、長時間畳に正座させられ、便所に行きたいとの訴えも聞き入れられず、自白を強制され、さらに、自白調書の内容は予め警察当局に判明していた事実がその大半を占め、犯人だけしか知り得ない事実は含まれておらず、誘導の事実があったことも明白であるから、被告人が被害者を強姦して殺害した旨の自白調書には任意性がないと主張する。

なるほど、被告人は、確定第一審の第二回公判廷において、警察官から「お前がいつまでも嘘をいい張るなら一年でも二年でも入れておいてやる。しかし、自分がやったといえばすぐに楽な身柄にしてやる」といわれたと供述し(確定第一審の第二回公判調書中の被告人の供述部分・職一四)、第四次再審請求審において、警察官からの質問に答えなかったり、知らないと返事すると、警察官がかんかんに怒って、「生意気な小僧だ。嘘をいっている」といって、握り拳や平手で被告人の顔、頭などを殴ったり、体を蹴ったりし、さらに両手で首を力一杯締め付け、両腕を掴んで逆にねじったりし、小便をさせてもらえず、漏らしてしまったこともあり、拷問を受けるのが恐ろしくて警察官のいいなりになったと供述している(被告人に対する裁判所の昭和四九年一二月二〇日付け尋問調書・弁二八)。

しかしながら、まず、被告人の取調べに当たった相田兵市警部及び清水初平巡査部長は、被告人は本当に悔悟して話をしようという様子が窺われ、弁護人主張の強制、誘導はないと述べている(確定第一審の第四回公判調書中の証人相田兵市及び同清水初平の各供述部分・職三二、職三四)し、警察官が被告人を取り調べた当時すでに作成され、被害者の死因を判定する重要証拠と思われる鈴木完夫医師作成の昭和二九年三月二五日付け鑑定書(職一六)には、被害者の胸部損傷が死後のものと推定されるとの記載があり、被告人の自白調書の記載と明らかに相反していて、当時警察官が右鑑定書を精読していなかったとしても、鑑定結果の大筋はわかっていたと思われるから、この食い違いは、警察官がすべて既得の知識に基づいて供述を強制したものでないことを示しているといえる。また、被告人は、昭和二九年五月三〇日晩に留置場保護室で当直の松本義雄に対し「大罪を犯してしまいました」と発言し、うなだれた涙ぐんだ様子をし(確定第一審の第四回公判調書中の証人松本義雄の供述部分・職三一)、取調べの際に被害者の着衣を示されて動揺し、「もう見せないでくれ。私はここにいて警察署の付近で遊んでいる子供の声を聞くとあの子が生きて帰って来るような気がしてならない。早く刑務所へ送ってくれ」と述べている(確定第一審の第四回公判調書中の証人相田兵市の供述部分・職三二)が、このような言動を示したことは、供述を強制されて虚偽の自白をしたという事実とは矛盾するように思われ、この点について、被告人は、自分のことが新聞に載り、祖先や身内に申しわけないと思ったから(確定第一審の第一五回公判調書中の被告人の供述部分・職一三一)とか、証拠品を見て面白半分にいった(確定第一審の第四回公判調書中の証人相田兵市の供述部分中の被告人の供述部分・職三二)などと述べているが、被告人の弁解は信用のおけるものとはいい難い。そればかりか、被告人は確定第一審の第二回公判で、被告人の各自白調書を示され、島田市警察の警察官は自分が話そうとしていることを受け付けてくれず、自分に無関係なことを追及し、あるいは、おだてに乗せて自供させようとし、パンなどを買ってくれたりするのでそれなら嘘をいってやろうと思い、警察官が教えてくれたことをそのまま述べたもので、暴行を受けたことはないと述べていた(確定第一審の第二回公判調書中の被告人の供述部分・職一四)のに、確定第一審の第一四回公判以降になると、警察官に「お前やっている」と背を小突かれたり(確定第一審の第一四回公判調書中の被告人の供述部分・職一一八)、調書の内の一通はむりやり万年筆を握らされ、身体を押さえられて署名させられ(確定第一審の第一五回公判調書中の証人相田兵市の供述部分中の被告人の供述部分・職一三〇)、警察で首を締め付けたり腕を掴んで逆さにねじあげたりされた(被告人作成の昭和三四年一二月二六日付け上申書・職二七九)と述べ、再審請求審になって、調書は全部について、腕を押さえられ、万年筆で腕を動かされながら署名させられた(被告人に対する裁判所の昭和四九年一二月二〇日付け尋問調書・弁二八)と主張するなど、その供述の変遷は不自然で、警察官の強制の事実を意図的に膨らませ、誇張しているとしか考えられない。

翻って自白に至ったいきさつをみるのに、被告人が逮捕されたのは昭和二九年五月二八日であり、初めて自白したのが同月三〇日の午後であることは前述したとおりであり、身柄を拘束されてから自白に至るまでの期間が短い。被告人は、当時捜査担当の警察官から同月一〇日前後の行動について質問され、そのころ失火のため平塚の警察署で取調べを受けたと供述したが、捜査官が右警察署へした照会に該当なしとの回答しかなく、追及を受けて間もなく自白に至ったこと(確定第一審の第四回公判調書中の証人相田兵市の供述部分・職三二)が認められ、この点からも被告人が無理な取調べによって自白したものでないことが推認される。そして、後述のように、被告人の右アリバイ供述は根も葉もないことではなく、大磯地区警察署で取調べを受けたのを平塚と勘違いしていたものであり、また、被告人が、軽度の精神薄弱者で、感情的に不安定であり、自分の主張が通らないと感情的になり拘禁されるような環境に置かれた場合に心因反応を起こし易いと診断されていて、精神薄弱者又は心因反応に陥り易い者は被暗示性が正常人よりも強いといわれていること(医師林暲ほか作成の昭和三〇年一二月五日付け鑑定書・職八二及び確定第一審の第九回公判調書中の証人鈴木喬の供述部分・職九〇)からすると、資質面に問題のあった被告人としては、真実を述べているのに認めてもらえず、自己のアリバイの説明に窮した結果、ことの重大性をよく理解しないまま、安易に警察官に迎合して自白するに至ったとも想像される。いずれにしても、このように短い期間に自白するに至ったことからすると、自白の動機が取調べ方法に無理があったかどうかというよりは、むしろ、被告人の資質面に由来する事情が深く関わり合っていたことを推認させる。

これらを総合すると、被告人の前掲各供述調書は、信用性の点はともかくとして、被告人が本件の取調べを受けた際違法不当とすべき肉体的心理的強制はもとよりそれに準ずるような誘導がなかったと認められ、任意性を失うものではなく、弁護人のこの点の主張は採用できない。

二  自白調書の信用性

1  胸部損傷の時期

本件再審開始決定に対する検察官の抗告を棄却した東京高等裁判所昭和六二年三月二五日付け決定は、「被害者の胸部損傷は、外部から内部に向かって、左胸部外表の革皮様化、大胸筋等の筋肉挫滅部、第四肋間筋の穿孔部といった高度の損傷があるのに、それらの筋肉内等には、一見してわかるような筋肉内出血、凝血等の生活反応が全く認められなかったのであり、また本件損傷の位置及び被害者の死体の状況から考えて、本件損傷からの出血が体外に流出した可能性は考えられないのに、胸腔内(肋膜腔内)にほとんど血液が認められず」「これらの創底にのみ、古畑鑑定書等が生前受傷の大きな根拠とする肺の出血膨大といった生活反応が出現するのは理解し難いことであるといわねばならず」「左胸部外表及び筋肉の各損傷部分に生活反応が出現しないことにつき納得し得る理由もなく、さらに肺の膨大部出血の成因を外力以外の原因で説明することも可能である以上、左肺に出血膨大部が存在することをもって生前に外力が作用した結果であると断定することにはなお疑問があるといわなければならない」と述べている。

ところで、太田伸一郎医師作成の昭和六〇年五月一二日付け意見書(弁五八)添付の法医学書の写しは、「生体に外力が加えられると、組織はこれに対しては生体特有の反応をする。この反応を生活反応という」(石山昱夫編著「現代の法医学」一九七五年八月版三九頁)、「出血は生活反応の中で最も重要なものである。外力の作用で血管が損傷されると血管内の循環血液は血管外に出る。生体では血液は血圧によって圧出され、組織内に浸入して凝固する」(富田功一ほか編著「標準法医学・医事法制」第一版一九三頁)、「損傷部に割を加えて、組織間出血(とくに皮内、皮下、脂肪層)の有無をしらべることによって、生前のものか、死後のものかを判別することができる」(城哲男ほか著「学生のための法医学」改訂第二版八頁)として生活反応の意味を記述している。右記述によると、生活反応のない損傷は常に死後に生じたものと判別し得るように読める部分があり、この点、弁護人は、被害者の左胸部外表の革皮様化した表皮剥脱部、大胸筋等の筋肉挫滅部、第四肋間筋の断裂部(以下被害者の左胸部のこれらの損傷を本件胸部損傷という)について、「組織間出血が存在する場合は生前受傷であるのは勿論であるが、組織間出血が存在しない場合受傷時期が生前か死後かわからないというのではなく、明確に死後なのである」(弁論要旨一三四頁)と主張している。しかし、右組織間出血の発現のためには、血管が破綻して開口し、血管内の血液が血管周囲組織の液圧にうち勝って、破綻部位から押し出されるだけの血圧が保たれていることが必要であって(赤石英編「臨床医のための法医学」四一ないし四三頁の写し・検三〇)、生前の損傷であっても、破綻した血管の断端が捲縮するなどしてその開口部が閉塞された場合には、出血がみられないことがあるし(ディートリイヒ著「法医学的な目的のための創傷の検討の際の医師の医学上の鑑定の実際」四五、四六、六一、六五、三二五頁の写し・検三七及びワルチャー著「鈍力による損傷における医学的、自然科学的、犯罪学的検査」六四九頁の写し・検三八)、何らかの原因のために血圧が著しく低下した状態で受傷した場合には、血管周囲組織の液圧に負けて、出血がみられないこともあり得る(赤石英編「臨床医のための法医学」四一ないし四三頁の写し・検三〇)。村上利著「血圧と生活反応に関する研究」日本法医学雑誌九巻三号二〇五、二〇六頁の写し(検四四)は、「我が国では、生前の損傷には必ず出血が認められると云う考えが支配的であるのに反して、外国では、生前の損傷でも出血の伴われないことがあると云うことが可成り強調されている」「動物実験をしてみた結果」「個体により色々であるが、大体の平均を求めると、血圧が正常時の大約四〇から七〇パーセント、平均五〇パーセント位まで低下すると、もはや出血は出現しない」「直接・間接に循環機能障碍を起こすような損傷を受けて、或る程度血圧が低下したところに、更に、次の損傷を受けたような場合には、出血など生活反応の程度が極めて弱いか、或いは殆んど認められない」と述べており、類似の実験結果を発表する文献(鈴木庸夫著「損傷と組織内出血に関する研究」法医学の実際と研究Ⅶ四七ないし五六頁の写し・検四六)も存在する。もっとも、損傷を受けた血管が出血する間の全くないまま閉塞する事態は、特殊な場合にしか起こらないかも知れないし、生前であれば低いとしても血圧があるから、生前受傷でありながら生活反応としての出血が全く見当たらない事態は例外的とも考えられ、実際には、血管が閉塞し、あるいは血圧が低下した状態でも、生活反応としての出血が僅かながら現れる可能性があるといえそうである。

そうすると、生活反応のうちの組織間出血の有無を考えるにあたっては、その検査方法の精粗をもみなければならないと思われる。すなわち、組織を切開することなくこれを一見しただけで右出血の有無を確認した場合、組織を切開して念入りに検分した場合、組織を切りとって顕微鏡などの器具を使用して詳細に観察した場合等により、発見され得る組織間出血の大きさあるいは数は当然異なるであろう。この点、鈴木完夫医師が、革皮様化した表皮剥脱下の皮下組織等を切開してその出血の有無を調べておらず、また、第四肋骨の下縁と第五肋骨の上縁に付着した筋肉を切開して肋骨骨膜の変化などを子細に検討していないことは、前に認定したとおりであり、本件胸部損傷については、単にその損傷部を一見して出血の有無を確認しただけなのであるから、微小な出血を見出だすことができず、したがって、一見してわかる生活反応がなかったとはいえても、組織間出血が全く存在しないとまでは断定できず、弁護人の主張するように、右受傷時期が「明確に死後なのである」とはいえない。

検察官は、左胸部外表及び筋肉の各損傷部分に一見してわかる生活反応が出現しない理由として、被害者が、扼頸によって窒息死する以前に、「外傷性ショック状態、又は心臓振盪等の状態、あるいはその両者の状態に陥って、末梢血管の血液分布が少なくなるとともに血圧が高度に低下し」(論告要旨七一頁)たことを挙げ、右損傷が扼頸前に発生したと考えることが合理的であると主張している。

勝又義直教授は、再審公判の第三回及び第四回公判調書中の証人としての各供述部分(検察官請求の証人番号一、以下検察官請求の証人番号を検人という)並びにその作成の昭和六二年九月一六日付け鑑定書(検一一一)において、扼頸された死体は、顔面に強い欝血が起こり、喉頭粘膜に溢血点が生じ易く、死斑が強く広範囲に現われるのが一般であるのに、被害者の死体は欝血、溢血点、死斑ともに弱く、これらの原因として、単一のものを呈示しにくいものの、一つは、陰部からの出血のため血量が少なくなっていたこと、一つは、被害者が頸部を圧迫され、あるいは鼻口部を押さえつけられて窒息状態に陥り、いわゆる肺臓死をたどる経過中に血圧低下状態になったこと、一つは、陰部に損傷を受けた恐怖や痛みのため一次ショックを起こして血圧低下状態になったこと、が考えられるとする。

扼頸された急性窒息死体の顔面が欝血し、喉頭粘膜下等に溢血点が生じ、死斑が広範囲にしかも著明に発現し、さらには、肺臓が血量に富み、肺臓、賢臓などに強い欝血が認められ、心臓左室は拡張が著しくその中には多量の血液が認められること、急性窒息状態に陥ると、一時的に血圧が上昇するものの、呼吸停止と前後して血圧が低下し、脈がふれなくなり、やがて心臓の動きが停止するに至ること(藤原教悦郎著「新法医学」一六四ないし一七一頁の写し・検一三七、上野正吉著「新法医学」九三ないし九八頁の写し・弁六二、弁一一一、四方一郎ほか編「現代の法医学」昭和五八年発行九一、九二頁の写し・弁六三、錫谷徹著「法医診断学」二四三ないし二四七頁の写し・弁一一二及び石山昱夫編著「現代の法医学」六三ないし六五頁の写し・弁一一三)に問題はないと思われる。勝又義直教授の述べる右三つの原因のうち、窒息状態による血圧低下の点は、扼頸が左胸部損傷より前に存在したことを意味し、胸部損傷の生じた後に扼頸があったとする検察官の主張とは相容れないので、その余の点を検討する。

陰部からの正確な出血量は必ずしも明らかではない。しかし、捜査官が被害者の死体を発見した直後に作成した検証調書(司法警察員小泉芳一作成の昭和二九年三月一三日付け検証調書・職一五)中には「外陰部は開口され幼児の掌大の穴となり陰部より血液が大量に流出してあるを認めた」との記載があり、また、被害者の陰部損傷の程度が高く、その全身の皮膚は顔面も含めて蒼白であり、死斑は比較的淡く狭い範囲にしか存在せず、喉頭、気管及び食道の各粘膜に異常がないこと、心臓左右心室内の血液が少量であり、肺臓、腹腔内臓器の血液はやや多い程度に過ぎないことは前に認定したとおりで、典型的な扼頸の窒息死体と比較し血量が少ないと認められ、鈴木完夫医師はその作成の前掲鑑定書中で、「全身症状として」「貧血症状が認められる」と記述し、出血量に関する質問に答えて、「あのくらいの子供ですと、大体血液は全部で一〇〇〇シーシーないと思います。ですから三〇〇シーシー出れば非常に重態な貧血症状を起こすと思います。そこまではいっていないと思います」「二〇〇くらいじゃないでしょうか」と述べ(証人鈴木完夫に対する裁判所の昭和五九年八月三〇日付け尋問調書・検七)、その原因として、陰部からの出血以外にその理由が考えにくいという(証人鈴木完夫に対する裁判所の昭和五九年五月一六日付け尋問調書・検五)のであり、全身症状として貧血症状を呈する相当量の出血が陰部からあったことが認められる。もっとも、肺臓、肝臓等の胸腹腔内臓器に、窒息死体としては少ないものの、通常よりやや多い血量があり、頸部にはわずかながらも皮下出血があって現に生活反応が出現していたこと、鈴木完夫医師は右鑑定書中で、「外陰部の裂創は高度であるが致命的なる出血を来す程のものとは思われない」「本裂創よりの出血は放置すれば相当量有るものと考えられるが致命的なる大出血を来すことは稀であると思はれる」と述べていることを考えると、被害者が生活反応の出現しにくいほどの高度な貧血状態に至っていたとまでは認められない。

木本誠二監修「現代外科学大系6損傷」二二ないし二九頁の写し(検一一六)は、一次ショックが、激しい痛み、驚き、恐怖により反射的に、外傷直後に起こり、迷走神経緊張状態を伴い、きわめて短時間に高度の血圧降下を来し、顔面蒼白、四肢厥冷、冷汗を生じ、急激な脳血流減少の結果、悪心、嘔吐、意識障害を招き失神に陥ることもあるという。また、勝又義直教授によると、ショックが起きると、血液の分布に不均衡が生じ、これは血液の中心化という現象で皮膚等の血液が少なくなって内臓の欝血を起こすという(再審公判の第三回及び第四回公判調書中の証人勝又義直の各供述部分・検人一)。被害者の陰部損傷の程度は高度であるから、その損傷時期が後述のように生前と認められれば、その痛み、驚き、恐怖はいずれも激しいものであったことが容易に推認され、一次ショックを起こした可能性が十分に認められる。また、毛細血管では血流抵抗、血流速度が小さく(「ショック」一二、一三頁の写し・検一三一)、人体各部のうちで胸部の皮膚血流値が比較的小さい(高瀬吉雄ほか編「加齢と皮膚」七三ないし八九頁の写し・検一三二)から、被害者が陰部受傷の際に一次ショックを起こし、このため、左胸部外表及び筋肉の各損傷部分に一見してわかる組織間出血あるいは凝血が発生しなかったとしても不自然ではない。このことは、胸部損傷の際被害者が前述した全身性の貧血状態にあったとするとなおさらである。

なお、一次ショックを起こし、血圧の低下を来したとすると、頸部に生活反応が存在することの説明がつかないのではないかとの疑問を提示する意見(太田伸一郎医師作成の昭和六三年五月一七日付け意見書・弁一一六)があるが、前述のとおり、頸部の生活反応は極めて軽度であり、頸部と胸部とでは生活反応の検査方法に差があったことを考えると右の点は不合理とはいえない。

ところで、右血圧低下の原因に関し、東京大学教授石山昱夫は、勝又義直教授の所見とは異なり、心臓振盪という生体現象により説明している。すなわち、石山昱夫教授は、当公判廷における証人としての供述及び再審公判の第七回公判調書中の証人としての供述部分(検人二)において、被害者の第五肋骨下縁付近の半胡麻粒大の表皮剥奪群は心臓に直達する部位にあるため、この損傷を起こした打撃により心臓振盪が起こり、その結果として低血圧状態が生じたことが考えられ、具体的には、石を用いて豚にした打撃実験を通じ、人が加える最初の打撃は第二回以降の打撃に比較しその程度が弱い傾向がみられ、経験的にも同様のことがいえるところ、第五肋骨上の半胡麻粒大の表皮損傷群が第四肋間上の表皮損傷群に比較して損傷の程度が低く、したがって、右半胡麻粒大の表皮損傷群を生じさせた打撃が最初の打撃であり、これにより、心臓振盪が生じて、その瞬間に血圧の著明な低下が生じ、その後に被害者の第四肋間に打撃が加えられたと考えられ、結局、心臓振盪による血圧低下のため組織間出血等の生活反応が第四肋間の損傷部に現れにくかったこと、また、心臓振盪の発生を裏付ける資料として、被害者の死因が窒息死であり、本来血液が欝滞していなければならないはずの右心室内に血量が少なく、心臓機能が低下していた状態が読み取れ、さらに、被告人の司法警察員に対する自白調書中に、「子供は、私が腹立ちの余り石で二、三回殴ると、本当にひどかったと見え、泣くのが止まり、フーフーと息をしながら目をつむり唸っていました」との記載があり、被害者が心臓振盪の臨床症状を呈していたことが窺われると述べている。

心臓振盪という医学上の概念については、赤石英編「臨床医のための法医学」改訂一二版一五八、一五九頁の写し(検一三五)のなかにも、心臓振盪とは胸部に鈍的外力が作用し、心臓に心筋破裂や大出血などの激しい変化を来すことなく、心臓の機能障害を引き起こすことをいい、臨床症状としては、心臓血管系症状、すなわち、顔面が蒼白となり、冷感、脈拍の微弱、徐脈、不整脈などが起こり、心臓の拡張(急性外傷性心臓拡張)がしばしば認められ、動脈血圧の下降や静脈圧の上昇もよく見られるといわれ、これらの心臓血管症状に伴い、眩暈・意識喪失などの脳症状もみられることも多く、これらの症状は外力を受けた直後に起こり、直ちに死亡することもあるが、多くは数分ないし数一〇分で回復するとの記述がある。また、カンプほか著「災害医学全書」三巻三五八頁の写し(検一三四)は、心臓振盪とほぼ同様の機序で同様の症状を呈する胸郭振盪について、「胸部臓器には解剖学的変化を生ぜしめることなしに危険な全身症状が発生する場合をいう」としている。しかし、前掲赤石英編「臨床医のための法医学」改訂一二版一五八、一五九頁の写し(検一三五)は、心臓振盪について、「病理解剖学的にほとんど所見が認められない」「剖検の際、心臓部に外力の作用した痕跡があることもあり、ないこともある。心臓大血管に病理学的所見のないことをもって心臓振盪とするのであるゆえ、心臓大血管に激しい変化はない。あったとしても軽度の心外膜または心内膜の出血のみである。内臓のうっ血や血液が流動性であるなど急死の所見のみである。心臓に外力の作用した痕跡を欠けば、些細な外力による一次性ショックと区別はつけられない」と述べており、心臓振盪にはそれが発生した証拠となる病理解剖所見がほとんどないというのであるから、死体がその生前に心臓振盪を起こしたことを病理解剖所見から証明することは困難だといわざるを得ない。その意味で、確実な臨床所見がない場合に、心臓振盪を認めることは慎重でなければならないと考えられる。さらに、右「臨床医のための法医学」の記述は、執筆者が直接経験した事実を述べたり、定説となった事柄を述べたように窺われる論述ではなく、また、石山昱夫著「法医学ノート」九〇頁の写し(弁八五)中に、「明らかに心臓自身への直接的な外力作用によって心臓が停止して死亡した例があり、心筋内に数多くの出血があったり弁膜が破れたりした心臓挫傷例もあるので、それよりもっと軽い心臓振盪があってもおかしくはない。われわれも最近、防弾チョッキの効果を調べているうちにこれが心臓振盪でないかといった症例を数例見いだした」との記述も、心臓振盪が未だ定説になっていないことを窺わせるうえ、同教授編著の「臨床法医学」六〇ないし六五頁の写し(検一三六)は、犬を用いた実験結果を論述し、その心室を形成する心筋の麻痺を示す心電図上の変化が、シヨロムカの述べる心臓振盪の純粋な型であると紹介しながら、心電図上に変化を生じた場合には、程度はさまざまであるものの、いずれも心臓の損傷が発生したというのであり、心臓の損傷を伴わない心臓振盪が発生し得ることに異論が全くないのか、あるいは、異論がないとしても、どのような条件下でどの程度の頻度で心臓振盪が発生するのかといったことが、明らかでない。

こうしてみると、一般論として、胸部に鈍的外力が作用した場合、臨床症状として心臓血管系症状が起こり得ることは、否定することができず、したがって、病理学的所見に欠け、その医学的な発現機序の解明が十分でないからといって、そのことだけで、右現象の存在を否定することは正しくないとはいえるだろうが、本件の具体的な適用にあたっては、未だ定説となっておらず、確実な裏付けの乏しい「心臓振盪」なる概念を用いて、被害者の本件胸部損傷を説明することにはためらいを覚える。

さらに、石山昱夫教授自身も、右心臓振盪の発生について、「可能性として、お考え頂きたい」「私の意見が同意を得られるかどうかは別として」と述べている(証人石山昱夫の当公判廷における供述及び再審公判の第七回公判調書中の同証人の供述部分・検人二)ばかりか、本件で石山昱夫教授のいう心臓部に直達する打撃の存在を直接示しているのは、第五肋骨下縁付近の表皮上の比較的軽微な半胡麻粒大の表皮剥脱群であって、検察官はここに「強力な打撃」が加えられたかのように主張するが、この半胡麻粒大の表皮剥脱群は、第五肋骨下縁の長さ二センチメートル弱の小さな部分で、ここに硬い鈍体による「強力な打撃」が作用したとすると、鈍体により擦過圧挫された第五肋骨上の他の損傷部分と同様でないにせよ、打撃を与えた鈍体と第五肋骨との間に狭まれて圧迫され、高い程度の損傷を受けるのでないかと思われるのに、現実に存在する損傷から窺える打撃の強さは、さほど大きいものとはいえず、また、胸部全体に強い外力が作用した事実を認め得る証拠も当然ながらないことを考えると、「心臓が拡張」し、「動脈血圧の下降や静脈圧の上昇」が起こるとともに、「眩暈・意識喪失」などの症状を伴う程度の心臓振盪が、被害者に発生した蓋然性があるとまでいうことは、疑問の余地がある。検察官は石山昱夫教授のした仔豚の実験で、その胸部を石で力一杯殴打しても胸部皮膚にごく軽微な表皮剥脱しか認められなかったことを理由に、被害者の半胡麻粒大の表皮剥脱群が軽微であっても不自然でないかのように主張するが、仔豚の皮膚は毛の多い動物皮膚であり、その筋肉は厚く、弾性並びに引っ張り力に対する最大抵抗も人のそれと異なると思われる(石山昱夫教授作成の昭和六三年三月二八日付け追加意見書・検一二九)のであり、仔豚と同様に考えるわけにはいかない。また、検察官の主張する心臓右心室内の血量が少ない事実も、単に心臓の機能が衰弱していたことを推認させるだけで、直接心臓振盪に結び付く根拠とも思われない。なお、石山昱夫教授のいう、被告人の自白調書の記載も、被告人の検察官面前調書では、足元の石を右手に握り数回力一杯殴り付けたところ、女の子は大きな息をしながら唸り出したので、こうなっては仕方がないと思い、このままにして置けば唸り声で人に見つかってはまずいのでいっそのこと殺そうと思ったというのであって、司法警察員面前調書に供述している「フーフー」との息が、「大きな」息と置き換えられており、唸り声が小さくなかったことが窺え、果たしてこれが、「動脈血圧の下降や静脈圧の上昇」などの症状を伴った心臓振盪の臨床所見と一致するのか疑問があり、心臓振盪の存在を裏付けるとまでいえない。

以上の検討結果をまとめると、被害者の左胸部損傷は、一見してわかるような筋肉内出血、凝血等の生活反応が認められなかったのであり、したがって、そのことだけとってみれば、死後の損傷である蓋然性が否定できないものの、被害者が陰部からの出血により血量が少なくなっており、また、陰部に損傷を受けた際に恐怖や痛みのため一次ショックを起こして血液の分布に不均衡を生じ、血圧低下状態になった可能性も十分考えられ、左胸部外表及び筋肉の各損傷部分に一見してわかるような生活反応が出現しないことに一応の合理的な説明を与えることができる。

そこで、次に、被害者の左肺にある二か所の出血膨大部及びこれと本件胸部損傷との関連性について検討する。

左肺上葉の出血部は、溢血点のように細小なものでなく、肺の特定の部位に膨大して存在し、しかも、その部位は外力によって損傷した左胸部第四肋間筋の断裂部にほぼ対応していたのであるから、左胸部に加わった鈍体の打撃により出血して膨大したと考えることが合理的である(牧角三郎教授作成の昭和六〇年二月一日付け及び勝又義直教授作成の昭和六二年九月一六日付け各鑑定書・検一〇、検一一一)。弁護人は「力が最初に、そしてより強く加わったはずの表皮、大胸筋、前鋸筋、第四肋間筋の各損傷部位に何らの組織間出血、生活反応がなく、突如として最深部の左肺にある出血が生活反応とするのは極めて不自然である」(弁論要旨一七一頁)と主張するが、そもそも肺の組織圧は三ないし五ミリメートル水銀柱で、組織外の気圧とさほど変わらず、したがって、肺では血圧が低くとも血管が破断すると容易に出血し(証人石山昱夫の当公判廷における供述及び再審公判の第七回公判調書中の同証人の供述部分・検人二)、また、小児では成人と異なり、胸郭が弾力性に富み、胸部の体表損傷がないときでさえ胸腔内臓器に重篤な損傷を伴うことがある(四方一郎ほか編「現代の法医学」昭和五八年版五二頁の写し・検一八、上野正吉著「新法医学」増補八版六四、一三九頁の写し・検一九、角田昭夫編「小児救急診療ハンドブック」一九八二年版八〇ないし八五頁の写し・検二〇及び小林登編「新小児医学大系四一―B」一九八三年版一四〇ないし一四八頁の写し・検二二)というのであり、前に述べたように、人体各部のうちで胸部の皮膚血流値が比較的低く、陰部からの出血及び一次ショックのため、胸部外表に一見してわかる生活反応が生じにくかった可能性のある本件において、肺にのみ生活反応が現れることは不自然ではない。また、出血は確認されていても凝血が認められないなら生前の損傷とはいえない(証人兼鑑定人太田伸一郎に対する裁判所の昭和四九年三月八日付け尋問調書・弁一四)とか、「左肺における膨大出血部が生前左胸部打撃の直接作用による損傷であるならば、それに伴う出血は小さくとも肺組織内に血腫として、具体的には、柔軟な肺の正常部分に比して格段に高い硬度として触知されるであろう」(内藤道興教授作成の昭和六〇年八月二〇日付け意見書・弁六〇)とする意見があるが、肺には血液の繊維素をとかしてしまう機能があり、出血した血液がなかなか凝固せず(証人石山昱夫の当公判廷における供述及び再審公判の第七回公判調書中の同証人の供述部分・検人二)、肺実質の損傷で、肺毛細血管の破綻による肺胞及び間質内の浮腫とその出血を主病変とする肺挫傷と、肺破裂部内へ血液が貯留した肺血腫は一般に区別されており(小林登編「新小児医学大系四一―B」一九八三年版一四〇ないし一四八頁の写し・検二二)、血腫に至らない出血があってもおかしくなく、血液が凝固していなかったことから生前の出血でないとはいえず、かえって、生前の出血であれば血圧が存在するから出血部が膨大し、死後の出血であれば外観上膨大に至らない(再審公判の第三回及び第四回公判調書中の証人勝又義直の各供述部分・検人一)のであって、左肺上葉の出血膨大部が被害者の生前にその左胸部への打撃によって生じた損傷である蓋然性が高いと認められる。

次に、左肺下葉の出血膨大部について、太田伸一郎医師らは、外傷としては左胸部の皮膚などと部位的に合致しないとしている(太田伸一郎医師作成の昭和四六年五月一二日付け及び上田政雄教授作成の昭和四九年一一月一日付け各鑑定書・弁一〇、弁一六並びに内藤道興教授作成の昭和六〇年八月二〇日付け意見書・弁六〇)が、ゴードンほか著「法医学」六五六ないし六五九頁の写し(検三四)は、「急激な胸部の圧挫、たとえば強打や交通事故における圧挫的損傷では肺挫傷が生じる。肺挫傷は肺のどの部分にも生じ得るけれでも、オズボーン氏によれば―その発生機転にもよるが―肺挫傷は肺の特定の領域に見られることが多いという。彼の説によれば、肺挫傷は直接的外力作用や対側衝撃損傷、及び狭撃的な外力によって生じるという。直接的外力作用による肺挫傷は、胸壁に外力の加わった部位の直下に相応する肺の領域に生じる。この挫傷は肺組織内に単独、もしくは複数の不規則な形の出血巣として見られるのが普通であるが、肺の側方の表面には肋骨の形状に相応する平行的な出血巣群が見られることもある。『対側衝撃』による肺挫傷は急激な胸部圧挫の際に生じることがある。この損傷はおそらく肺のなかにおける空気の激しい転位に基づく空気の静力学的な波動によって生じるものではなかろうか。この種類の肺挫傷は通常肺の後面に肋骨角に対応する形で出現する。この挫傷は肺組織内において外側方や前方へとひろがることがある。胸郭内のV字形の間隙に作用する狭撃的な外力は種々の部位に肺挫傷を生じる。オズボーン氏は横隔肋骨部の肺挫傷がこの種の肺挫傷では最も多いと考えている。横隔肋骨洞はV字形の間隙であり、肺損傷はくさび形の肺挫傷となり、その位置は肺の底部の外側方になる。そこでは肺が深呼吸するとき胸腔内の横隔肋骨洞に入りこむ。深く息を吸いこむと肺は洞に入りこみ、胸郭に直接加わった外力や、もしくは腕の下部や肘を介しての外力と、身体の右側では肝臓の、左側では脾臓や近接臓器などの内部抵抗力との間で圧迫されることになる」と記述している。左肺下葉出血部の詳細な成傷機転は必ずしも明らかでなく、対側衝撃(打撃)の考え方で下葉出血部を説明することはいささか無理があるが、被害者の左胸部の損傷の程度からして左胸部に強い打撃的衝撃が加わり、胸部が急激にしかも相当な深さまで押し下げられて胸郭容積が大層縮小したとすると、その結果、左肺の上葉はもちろん、深部の下葉が胸郭に衝突して出血を生じ得る(牧角三郎教授作成の昭和六〇年二月一日付け鑑定書・検一〇及び同月五日付け鑑定補充書・検一一)であろうし、左肺下葉が胸壁と横隔膜の間に押し込まれて圧挫され出血したと考えることもでき(勝又義直教授作成の昭和六二年九月一六日付け鑑定書・検一一一)、また、肺下葉の当該部分は外力が作用した際に肺損傷の発生し易い部位にある(証人石山昱夫の当公判廷における供述及び再審公判の第七回公判調書中の同証人の供述部分・検人二)というのであるから、左肺下葉出血部分についても、上葉出血部分と同時期に、左胸部に加えられた外力によって生じたものと考えても不自然ではない。

一方、二つの左肺出血膨大部について、太田伸一郎医師は、何によって生じたか明言できないものの、可能性として、窒息死に伴う肺の大理石模様の一部であるか、亜急性窒息死で肺臓にしばしば浮腫が起きて膨大し、そこに死後変化が起きて崩壊した血液が出てきたか、小児喘息など何らかの原因で肺胞が破れて膨張している所に就下した血液が溜まったと考えることができる(証人兼鑑定人太田伸一郎に対する裁判所の昭和四八年一〇月二三日付け及び昭和四九年三月八日各尋問調書・弁一三、弁一四)と述べ、また、上田政雄教授は、左肺の濃赤紫部分は扼殺の経過中にどこかで出血した血液が死戦期に流れ込んだものと思う(証人兼鑑定人上田政雄に対する裁判所の昭和四九年一二月一〇日付け尋問調書・弁一七)、内藤道興教授は、窒息に際して生じることのある肺気腫で部分的に強く隆起したため肺胞壁が破綻して出血したもの(内藤道興教授作成の昭和六〇年八月二〇日付け意見書・弁六〇)とそれぞれ意見を述べている。しかしながら、これらはいずれも一般には左右肺全般にみられる変化であり、また、気腫であれば切開すると萎縮することが普通で(勝又義直教授作成の昭和六二年九月一六日付け鑑定書・検一一一)、左肺の二か所の出血膨大部を切開した鈴木完夫医師は、外傷性でないとする考え方は納得できないと述べ、解剖時の肺の含気量が普通であり、肺全体として気腫の状況になかったなどとして、太田、上田及び内藤意見にいずれも反対している(鈴木完夫に対する裁判所の昭和五九年五月一六日付け及び同年八月三〇日付け各尋問調書・検五、検七並びに同人の検察官に対する昭和六〇年一〇月一八日付け供述調書の謄本・検九)し、さらに、左胸部の損傷が高度であって、肋間筋が断裂して創底に肺が見える状態であるにもかかわらず、左肺には出血膨大部以外に損傷がなかったのであり、左肺出血膨大部を外傷性損傷でないとすると、本件胸部損傷を発生させた外力が、左肺に何らの損傷を与えなかったことともなり、結局、左肺損傷部は、被害者の生前に外力により生じたと考えた場合に最もよくこれを説明をすることができる。なお、内藤道興教授は、七歳の娘を母親が絞殺した事案で、躯幹部に異常が認められないのに、左肺上葉部に小指頭大、左肺下葉に拇指頭大のやや膨隆した限局性の出血部が各一個存在した死体剖検例があり、胸部に外傷などが全く加えられていない急性窒息死体に限局性の肺出血を生じ得ることが実証されたと述べる(内藤道興教授作成の昭和六三年五月一八日付け意見書・弁一一五)が、外力のあったことを否定する根拠が十分に示されておらず、内因性とした場合の成傷機転の説明もなく(石山昱夫教授作成の昭和六三年六月一〇日付け補充意見書・検一六五)、これをもって前記認定を左右することはできない。

このようにみると、本件胸部損傷が外力によって発生したことは問題のないところであって、ここに一見してわかる生活反応が存在せず、したがって、この損傷が被害者の死後に生じた蓋然性が肯定できるものの、生前の損傷である可能性も十分に認められ、それが生前に加えられたか、死後に加えられたか、損傷自体からは明確に判断できない。しかし、本件胸部損傷の下にはこれに対応した左肺の部位に出血膨大部があり、これが外傷性でないとする見解は、左肺出血部の成因を十分に解明できず、その説くところも様々であり、いずれも成立する可能性が低いといわざるを得ない。また、外傷性を否定する見解が根拠とする主要な点が、本件胸部損傷が生前の損傷とは考えられないからというものであることは、その論述の端々から読み取れ、この点、本件胸部損傷が生前の損傷である可能性が十分に認められる以上、左肺損傷を外傷性と考えるに支障があるとはいえず、右出血膨大部以外左肺に損傷のないことをも併せ考えると、被害者の左胸部損傷及び左肺損傷は、被害者の生前に一連の鈍的外力により生じたと認められる。

2  胸部損傷の成傷用器

前掲昭和六二年三月二五日付け東京高等裁判所決定は、「本件石が第四肋間に押し込まれた」「と想定し」た場合、「本件石が表皮等の組織を介し第四、第五肋骨に突きあたってこれを押し下げ、最大幅が約1.2センチメートルしかない第四肋間を押し開き、第四肋骨を上へ、第五肋骨を下に押し広げる一方、肋間筋は第四肋間の離開によって上下に伸展したうえ本件石による前後の打力によって押し下げられ、その結果弾性限界を越えて断裂し」「その後も石は更に深く入って肋間を押し開いて肺に損傷を与えたということになる」が、「これだけ大きな力が加われば、一般的にはいくら幼児の肋骨に柔軟性があるといっても、第四、第五肋骨は挫傷を受けることになるし、仮に柔軟性のため肋骨骨折を生じないで曲がったりすることがあるとしても、本件石の形状からして第四肋骨下縁及び第五肋骨上縁の部分の骨膜に損傷を与えること」は「避けられない」と判示している。

ところで、被害者の左胸部外表の損傷は革皮様化した表皮剥脱のみであり、その成傷用器が鈍体であることは明らかであるが、上下に並んだ一辺の長さが0.7と1.0センチメートルの二個の丸みを帯びた正方形様の表皮剥脱は上方のものの上半分が第四肋骨に下方のものの下半分が第五肋骨にそれぞれ重なる形であって、その間に表皮剥脱のない部分があり、また、右損傷の内側で第五肋骨に重なる形の横2.0センチメートルの長方形様の表皮剥脱があり、その上方に半米粒大の表皮剥脱があって、これらの表皮剥脱下の胸壁筋肉が挫滅し、第四肋間筋が断裂していたという各損傷の形状及び位置関係を考えると、本件胸部損傷の成傷機転としては、鈍体の凸部が、胸壁表面を打撃し、強い力で被害者の左第四肋間に叩き込まれ、胸郭全体を陥没させるとともに第四肋骨と第五肋骨を上下に押し開き、第四肋間に叩き込まれた鈍体と第四肋骨下縁及び第五肋骨上縁との間に皮膚及び大胸筋等の皮下筋層が挟まれ、伸展しながら擦過圧挫されることにより表皮剥脱を生じるとともに大胸筋等の皮下筋層が挫滅し、第四肋間筋が第四肋骨と第五肋骨の開大のため伸展して鈍体の先端部による衝撃を受けて断裂し、断裂部から収縮して、第四肋骨に穿孔部を生じた(鈴木完夫の検察官に対する昭和五九年三月二九日付け供述調書の謄本・検四、牧角三郎教授作成の昭和六〇年二月五日付け鑑定補充書・検一一、勝又義直教授作成の昭和六二年九月一六日付け鑑定書・検一一一及び石山昱夫教授作成の昭和六三年一月二七日付け意見書・検一二八)可能性が高い。第五肋骨上の横2.0センチメートルの長方形様の表皮剥脱の下方にある横二センチメートル弱の半胡麻粒大の表皮剥脱群は、右の第四肋骨への打撃とは別の、鈍体のいくらか平らとなった部分が第五肋骨下縁に衝突して生じた(石山昱夫教授作成の昭和六三年一月二七日付け意見書・検一二八)と考えることが不合理だということもできない。

なお、太田伸一郎医師は、肋間筋を断裂させた凶器は肋骨に触れずに第四肋骨に入り込める形状であり、径が一センチメートル弱の類四角の木片様のものと述べる(証人兼鑑定人太田伸一郎に対する裁判所の昭和四九年三月八日付け尋問調書・弁一四及び太田伸一郎医師作成の昭和六〇年五月一二日付け意見書・弁五八)が、右の一連の表皮剥脱がそれぞれ別々の打撃によって損傷されたものとは考えにくく、径が一センチメートル弱の木片様の鈍体では、右各表皮剥脱を生じさせる可能性に乏しい。

本件石は、これを観察すると、重さ約四三〇グラムの拳大変形三角型様の形状であって、表面はややざらざらし、突出した所が四点あるが、いずれも角張ってはおらず、鈍球状をなしており、最も先鋭に突出していると思われる所を下にして、上から眺めると、三点の突出点間はそれぞれ五ないし七センチメートル余りに、この三点の突出点から最も先鋭な突出点までの距離はそれぞれ七ないし八センチメートル余りに計測される(押収してある拳大変形三角型石一個・昭和六二年押第一一〇号の一〇。)。

胸郭を構成している肋骨は、背面の脊椎から前面の胸骨にかけて湾曲していて、その断面が偏平であって厚さが幅の四分の一ほどであり、七歳児の場合の乳頭付近で、およそ、第四、第五肋骨の幅が0.7ないし0.8センチメートル、その第四肋間が一センチメートルである(太田伸一郎医師作成の昭和四六年五月一二日付け鑑定書・弁一〇及び勝又義直教授作成昭和六三年一月一八日付け鑑定補充書・検一一四)。太田伸一郎医師は、七歳児の第四肋間は最大でも1.2センチメートルほどと供述している(証人兼鑑定人太田伸一郎に対する裁判所の昭和四九年三月八日付け尋問調書・弁一四)。

そこで、問題は、本件石で六歳三か月の被害者の肋間と骨膜に一見してわかる損傷を起こさせることなく、その肋間筋を断裂させることが可能かどうかである。

検察官は、「小児骨は、成人骨と異なり弾力性に富み、しかも厚い骨膜で包まれているため折れ難く」「小児屍体骨を用いた骨の屈曲試験で骨折を起こさせようとして屈曲力を加えて行った場合に骨折音とともに若木骨折を生ずる直前では骨は実に四五度以上も屈曲することが可能だといわれている」(榊田喜三郎著「小児骨折の特徴」整形外科MOOK一三巻一九八〇年版八ないし一三頁の写し・検一一七)などの幼児の肋骨の柔軟性を記述する医学文献を前提にして、上下幅一センチメートルほどの肋間筋を間に挟む肋骨が押し広げられ、およそ二倍の引き伸ばしに耐える筋肉(藤森聞一編「生理学体系Ⅶ運動系の生理学」八ないし一三頁の写し・検一一九)を断裂させ得るだけの肋骨の離開が生じた場合、肋骨骨折が起きるかについて、骨の歪による骨折の限界を計算し、一センチメートルの第四肋間を上下に二ないし三センチメートルくらいまで開大させたとしても骨折が生じないこと(再審公判の第三回及び第四回公判調書中の証人勝又義直の各供述部分・検人一及び勝又義直教授作成の昭和六三年一月一八日付け鑑定補充書・検一一四)、一歳七か月の幼児ほかの、人の肋骨を試験片としてそのたわみを計測し(証人石山昱夫の当公判廷における供述及び第七回公判調書中の同証人の供述部分・検人二)実験的にも骨折の起こり得ないことが裏付けられたとしたうえ、実際には肋骨は全体としてねじれるようになりつつ、上下に陥凹して肋間が開大するから、少なくとも被害者の第四肋間を骨折なくして三センチメートル以上に開大させて肋間筋を断裂させることが十分に可能であり、骨膜については、本件石と骨膜間には皮膚や皮下組織等が介在して一見してわかる損傷が起きにくかったとし、さらに、第四肋間筋の断裂部がゴムに近いほどの弾力性を有する肋軟骨部にかかっているから、左胸部内側の表皮剥脱部を生じさせた打撃は、その相当部分が肋軟骨部に掛かっていて、なおさら骨折が生じにくかったと主張している。

なるほど、鈍体が胸部に押し込まれ第四肋骨と第五肋骨とを離開させて肋間筋を断裂させたとしても、肋骨になんらの骨折が生ぜず、骨膜にも一見してわかる変化が生じない可能性があることは、検察官引用の諸文献等を前提にすると肯定できるところである。しかし、同時にまた、成人の肋骨筋が二倍程度の引き伸ばしにあって、断裂するのはよいとしても、幼児の肋骨が柔軟性に富み、その骨膜が強靱であるのと同様に、六歳児の肋骨筋も成人のそれと性質が異なっている可能性があるし、幼児肋骨の柔軟性に関する検察官引用の諸文献はその事例の具体的条件が必ずしも明確でなく、骨の歪あるいはたわみの限度を示す計算あるいは計測した数値はいずれも骨をゆっくりと変形させた場合のものであって、急激にこれを変形させた場合にも同様のことがいえるか疑問がないわけではなく、さらには、鈴木完夫医師作成の前掲鑑定書に添付された写真によると、革皮様化した各表皮剥脱は左乳頭下方に並んでいるもので、このうち最も内側にある長さ2.0センチメートルの長方形様の表皮剥脱が肋軟骨に掛かっている部位にあるとまでいえるか疑問がある。右の写真によると、肋骨筋の断裂部の一部が肋軟骨に挟まれた肋間部に及んでいるようにもみられるが、肋間筋の断裂部が四センチメートルほどの長さで、胸部外表の損傷部分より大きく(上田政雄教授作成の昭和四九年一一月一日付け鑑定書・弁一六)、開大された第四肋間が、ゴムに近いほど柔軟性に富んでいるという肋軟骨のある方向に広がり、そのため、打撃が直接及んでいない肋軟骨に挟まれた肋間部分にまで断裂が及んだ可能性も考え得るのであり、右写真を根拠として、直ちに、打撃の相当部分が肋軟骨にかかっていたとはいえない。また、左胸部表皮の第四肋間に対応した表皮剥脱部と第五肋骨上のそれとは、大きさが異なり、特に内側にある長さ2.0センチメートルの長方形様の表皮剥脱は、その上方の半米粒大のものと比較して格段に大きく、このことは鈍体の力が、二つの肋骨に均等に働いておらず、主として第五肋骨上に作用し、したがって、第五肋骨の変形は第四肋骨に比較し高度であったことが窺え、皮膚等の組織を介在させていたとしても、鈍体の力が大きく作用した第五肋骨の上端で鈍体と接した場所は、範囲がごく限られているであろうから、そこに瞬間的に本件石のような硬い鈍体による強力な衝撃が加わったとすると、肋骨骨折あるいは骨膜の部位に何らかの、一見してわかるような損傷を生じるのではないかとの疑問がある。また、第四肋骨についても、その断面の下端部分が比較的鋭角な形をしていて(証人石山昱夫の当公判廷における供述及び第七回公判調書中の同証人の供述部分・検人二)、損傷の起き易い形態をしている。骨膜についても、太田伸一郎医師が、野球等のスポーツで、皮下脂肪等の被覆の少ない骨部に死球を受けると、骨膜と骨質との間に出血する例があるとしており(太田伸一郎医師作成の昭和六三年五月一七日付け意見書・弁一一六)、骨膜部位に損傷がないことが当然とまではいえない。

検察官は、本件石が小児の幅約一ないし1.2センチメートルの第四肋間部に叩き込まれて肋間を上下に開大させた場合を想定し、石山昱夫教授が、幅約0.4ないし0.5センチメートルの兎の肋間部に併せて縮小したピラミッド型先端部(直径五センチメートルのアルミ円盤ストッパー付き)を使用して、人の肋骨と比較して格段に弱く脆い肋骨を有する兎を用い、その胸部を打撃する実験を行った結果を総括すると、ピラミッド型先端部が兎の肋間部に叩き込まれた場合に、それが肋骨を上下に開大させる幅は、一センチメートル陥入した場合で約一センチメートル(兎の肋間の二倍以上)、二センチメートル陥入した場合で約二センチメートル(同四倍以上)であり、アルミ円盤ストッパーは、本件石を握る人間の手が石の動きを止めつつ、胸郭全体を陥凹させたのと同様の役割を果たすことになり、このような条件下で、右ピラミッド型先端部により兎の肋間を強く打撃した場合、ピラミッド型先端部の深さを一ないし1.5センチメートル陥入(兎の肋間を二倍以上ないし三倍以上開大)させた九回の実験のうち、ピラミッド型先端部が肋骨に直撃した一回を除いた八回について肋骨を押し広げたことによる骨折が生ぜず、ピラミッド型先端部の深さを二センチメートル陥入(兎の肋間を四倍以上開大)させた七回の実験のうち肋骨直撃による一回を除いた半分の三回について肋骨を押し広げたことによる骨折が生ぜず、かつ、右一六回のうち一五回は筋肉の穿孔が生じており、骨折を伴わない骨膜のみの損傷が生じた例も認められなかった(石山昱夫教授作成の昭和六三年三月二八日付け追加意見書・検一二九)のであり、したがって、兎の肋骨に比較し格段の強度を有する人間の肋骨に骨折を生ぜしめないで肋間筋を断裂させることが十分に可能であることが、実験的にも裏付けられたと主張している。

なるほど、右実験結果は、おおまかな目安としては考慮に値するものを含んではいる。しかし、このような実験結果が、そのまま人体の鈍体作用時の所見をどの程度まで具現化できるか問題があるほか、まず、石を握る人の手が胸郭全体が陥凹させたとの点は、被害者の左胸部にその痕跡がなく、単なる憶測に止まるものであるにもかかわらず、人の手に相当するストッパーの径を五センチメートルにした場合と、それより広くしたものとを比較すると、ピラミッド先端部で肋骨を同様に離開させていながら、径が五センチメートルのものは筋挫滅が発生し、その一部に骨折が生じているのに、それより広い径のものには筋挫滅、骨折が全く生じなかったのであり、石で被害者の肋間を殴打した場合、石を持つ手が右ストッパーの役割を果たさないときには、肋骨の骨折が高い蓋然性で発生するのではないかとの疑問を生ぜしめている。次に、肋間を開大させる鈍体の形状のうち、先端部の面積の大小、先端部からその後方にかけての角度の大小、あるいは、肋骨との作用面のなめらかさなどによって、影響されるようにも思える。太田伸一郎医師作成の昭和四七年四月六日付け鑑定書(弁一一)添付の写真を見ると、本件石のうち、他の部分に比較して突き出ている鈍球状の部分は、その先端の傾斜は緩いが、少しいくと傾斜がきつくなり、七歳女児の肋骨模型に先端部を当ててみると、肋骨がまず石の緩い傾斜部分に当り、石が押し込まれるとその途中から傾斜のきつい部分に肋骨が当たるようになり、複雑な形状の本件石とピラミッド型先端部では後者のほうがより筋肉の断裂を生じさせ易く、肋骨に対しては損傷を与えにくい形状ではないかと思われる。

このように考えると、検察官が主張するように、本件石が肋間に叩き込まれることにより、肋骨の骨折あるいは骨膜の損傷を生じないで、肋間筋が断裂しても一概には不合理といえず、本件胸部損傷の成傷用器として本件石が適合する可能性が存在するとしても、検察官主張の成傷機転では、肋骨の骨折等の損傷が生ずるのではないかとの疑問も捨てきれず、結局本件石で本件胸部損傷を生ぜしめ得るか否かについては、明確には判断できないといわざるを得ない。

3  陰部損傷の時期

東京高等裁判所昭和六二年三月二五日付け決定は、「被害者の膣穹隆部裂創内の凝血の存在は生活反応と認められること、被害者の死体は全身症状として貧血症状にあり、その原因としては陰部損傷からの生前出血が考えられることからすれば、被害者の陰部損傷の時期は、生前かつ頸部絞扼前と認めるのが相当である」と述べている。

被害者の膣穹隆部裂創内に凝血が存在していたこと、被害者の死体が全身症状としての貧血症状にあり、その原因として、陰部損傷からの出血が考えられることは、前に認定したとおりである。

弁護人は、この点について、仮に膣穹隆部に凝血が存在していたとしても、死後しばらくの時間内に体外に流出した血液は凝固能力があり、また、本件のように窒息死の場合でも、遷延性窒息死であれば、やはり死後しばらくの間は血液が凝固することも法医学上認められているから、膣穹隆部の凝血を死後体外に流出した血液が凝固したものと説明し得るし、損傷状況の激しい陰部に組織間出血が全く見当たらないのに、膣穹隆部にのみ生活反応が突如として出現することはきわめて不自然であると主張している。

しかし、佐藤武雄ほか著「急激死亡人屍流動性血液に関する研究」信州大学紀要一九五三年七七ないし一〇三頁の写し(検二六)によると、窒息急激死亡人血液は、死後二ないし三時間は自然凝固能力を保有し凝血を生ずるが、「この凝血塊は生前正常の人血液の凝血塊と異なり、一定時間経過後に完全に溶解して再び流動性血液とな」り、右凝血溶解現象は摂氏零度では全く進行しないが、摂氏一八ないし二五度では二四時間以内にはすべて完了したというのであり、被害者の死因が急性窒息死であるとすると、死後三昼夜経過した被害者の膣穹隆部に存在した凝血は、生前に発生した出血に起因すると考えることができる(証人牧角三郎に対する裁判所の昭和六〇年四月一一日付け尋問調書・検一二)。

また、遷延性窒息をいう点については、確かに、富田功一著「法律家のための法医学」昭和四九年発行三〇〇ないし三〇二頁の写し(弁六四)が、「窒息の解剖時所見として重要なものは、血液が暗赤色で流動状態であり、凝固塊を認めない」「死亡までにかなり時間がかかった窒息死では極くわずかの軟凝血塊(特に仮死状態の時間が長いと、少量の豚脂様凝血塊さえ認められることができる)を混じた状態の血液である場合も実際にはある」と述べており、右文献を前提にすると、本件は、被害者の心臓周囲の大血管に極めて少量ながら凝血があり、遷延性窒息死に該当するといえそうである。しかし、四方一郎ほか編「現代の法医学」昭和五八年発行八九、九〇頁の写し(弁五九)は、「窒息の症状が発現して、呼吸運動の停止までの時間は五ないし八分位である」「気道の閉鎖が完全でない場合、あるいは、気道の閉鎖が短時間でその後すぐ解放されて呼吸が再開した場合などは、かなりの時間、たとえば一〇時間以上を経過したのち死亡することもある。これを遷延性窒息という」と述べたうえ、遷延性窒息死体の剖検例を紹介し、その死体は「心臓ならびに大血管内血液は完全に凝固し、末梢血管内にも多量の凝血が存在している」として、死体内の凝血が僅かの量ではなかったと述べている。論者によって「遷延」の意味する時間の長さが異なっている可能性もあるが、勝又義直教授は、遷延性の窒息は通常数一〇分とか、数時間とか死亡までに相当長い時間が経過している場合をいい、本件は典型的な遷延性窒息死とはいえず、どちらかというと急死に入ると述べ(再審公判の第三回及び第四回公判調書中の証人勝又義直の各供述部分・検人一)、太田伸一郎医師は、急死というのはせいぜい二、三分以内で死亡する場合で、亜急死はそれより一、二分多い程度で、遷延死はそれ以上と区分けできるとしたうえ、本件は亜急死にあたると述べ(証人兼鑑定人太田伸一郎に対する裁判所の昭和四九年三月八日付け尋問調書・弁一四)ており、共に本件を遷延性窒息死といってはいない。牧角三郎教授作成の昭和六〇年七月三一日付け意見書(検一四)によると、頸部圧迫による急性窒息死の場合、心臓内血液が暗赤色流動性であることが普通であるが、流動性血液の中に少量の軟凝血が混じっていることも稀ではないというのであり、勝又義直教授も同様の見解を示しており(再審公判の第三回及び第四回公判調書中の証人勝又義直の各共述部分・検人一)、同様に読め得る文献(井上剛著「新法医学(前篇)」二八四ないし二八九頁の写し・検三六)もある。結局、本件は急死に準ずると考えてよいと思われる。もっとも、本件を遷延性窒息死と考えた場合でも、被害者の心臓周囲の大血管内の凝血は極めて少量であり、これを除いた死体内の血液は流動性であったことが窺え、したがって、死後体外に流出した血液が凝固したとしても、その凝血が大きいまま残っている可能性はほとんでないと思われるのに、鈴木完夫医師は、その検察官に対する昭和六〇年一〇月一八日付け供述調書の謄本(検九)において、膣穹隆部裂創内の凝血はその大きさの記憶が不鮮明であるものの、半小指頭大ではなかったかと思うと述べていて、それが比較的大きかったことが窺われ、膣穹隆部の凝血は、死体から流血した血液が凝固して溶解現象を免れたものとは考えにくい。

さらに、陰部の損傷は高度であり、かつ、陰部損傷のため、全身症状としての貧血が生じるほどの出血があったことは前述したが、死後の血管損傷により出血の生じた場合には全身性貧血は生じない(上野正吉著「新法医学」七九、八〇頁の写し・検四七)し、死体の血管が破綻して流出する血液の量は生前損傷に比べて著しく少ない(四方一郎ほか編「現代の法医学」昭和五八年版三四、三五、四四頁の写し・検四八)というのであり、被害者が頸部を圧迫され、窒息により死に瀕した数分から十数分間の間、すなわち死戦期にある間は心臓は拍動しているものの弱く、この間に損傷を受けると、その生活反応の程度が弱い(勝又義直教授作成の昭和六二年九月一六日付け鑑定書・検一一一)というのでもあるから、陰部損傷に基づく出血は、被害者が生前かつ頸部絞扼により死戦期に陥る前に起こったものと考えざるを得ない。もっとも、膣穹隆部の凝血だけにしか生活反応が現れないことはいささか不自然であると一応はいえそうである。しかし、裂傷又は裂創のように、組織が引き裂かれてできた傷の場合には、その裂け目において血管が断裂し、創口から外へは大量の出血を招来するが、たとえ、それが明らかに生前の裂傷又は裂創であっても、その周囲の組織には挫滅(組織の破壊)はほとんど起きていないので、組織間出血を生ずることは稀であり、組織間出血を目安として受傷時期を論ずることができない(金沢大学名誉教授井上剛作成の昭和五〇年一一月二〇日付け及び牧角三郎教授作成の昭和六〇年二月一日付け各鑑定書・検一、検一〇)というのであり、組織内で血管が損傷して出血した場合と、血管の断端部が組織外に向いていて、流血した血液が組織に付着した場合とでは、組織間出血のみられ方が異なるのは事理当然とも思われ、裂創や表皮が剥けた場合は、組織間出血が発生しにくいという意見も同様に理解できるといえる。また、松本俊二著「生活反応としての組織内出血と其の雨による変化」日本法医学雑誌九巻三号二〇四、二〇五頁の写し(検三一)は、従来組織間出血は豪雨くらいでは消えてしまうものではないとされていたが、少なくとも肉眼的には、降雨により切割創の裂断面の組織間出血が消えてしまうことが実験の結果判明したと述べ、確定第一審の第二回公判調書中の証人松野みつの供述部分(職一一)は、昭和二九年三月当時の島田市近郊の天候について、一〇日の晩雨が降り、一一日も雨が朝のうち降っていて、傘なしで歩けないほどだったと供述し、前述のように、昭和二九年三月一〇日と翌一一日に本件死体発見現場付近で合計15.0ミリメートルの降雨があったというのであるから、風雨に晒されていたと思われ、かつ、掌大に開口していた被害者の陰部に、膣穹隆部を除いて生活反応が認められなかったとしても、一概に不自然とはいえない。

結局、被害者の膣穹隆部裂創内に生活反応と認められる凝血が存在し、被害者の死体は陰部からの出血のため全身症状として貧血症状にあったことからすれば、被害者の陰部損傷の時期は生前かつ頸部絞扼により死戦期に陥る前と認めるのが相当である。

4  陰部損傷の成傷用器

弁護人は、その膣口が狭く、膣口周囲の体筋が恐怖のため硬直化している六歳の少女を強姦するに際し、手指を使って陰部を裂いてこれを広げたりすることなしに、陰茎を押し当てるだけで挿入することは困難であり、仮に、これが可能だとしても、陰部に本件のような高度の損傷を与えるためには、腰を使った激しい前後運動が心要と考えられるのに、被告人の自白調書にはそのように読み取れる記載がなく、いずれにしてもその真実性がないと主張する。

なるほど、九州大学名誉教授医学博士北條春光作成の昭和四六年二月一五日付け鑑定書(弁九)は、「陰部の損傷は男性の陰茎によって生じたものらしくはない様に思う。それ以外の物体例えば手の指などで傷害されたものもあるのではないかと判断されます」と、太田伸一郎医師作成の昭和四六年五月一二日付け鑑定書(弁一〇)は、「成人男子の陰茎を六才児の膣に深さ5.95センチメートル内外も挿入することは容易ではない」「本件の損傷程度は、一回の陰茎半分の挿入で生ずるには、損傷度が大きすぎるように思える」と、上田政雄教授作成の昭和四九年一一月一日付け鑑定書(弁一六)は、「膣及び外陰部裂傷の成傷用器としては膣穹隆部の損傷を死後間もない時期にかなり硬い鈍器によったものと考える」「身長一米の被害者では被疑者の小指でも挿入することは困難で」「一回の陰茎半分の挿入によって生ずる損傷としては損傷度が大きすぎると」「の意見に」「同感である」と、内藤道興教授作成の昭和六〇年八月二〇日付け意見書(弁六〇)は、「外陰部の損傷は動物による咬傷の可能性がある。外陰部は複雑な立体構造を有しているから、咬傷の特徴が明らかでなかったこともありうる。陰部の損傷が成人男子の陰茎の挿入のみで生じたとは考えられない」「膣腔後壁の裂創のみを考えると陰茎挿入により生じたと考えることはできる。しかしこの損傷が陰茎の圧力で可能か自信はない。可能であるとしても、挿入に際してはかなりの強い抵抗と疼痛を感ずると思う」と、井上剛教授作成の昭和五〇年一一月二〇日付け鑑定書(検一)は、「被害者の陰部における外傷性異常のうち、膣壁の裂傷などの異常は、惹起した陰茎が暴力的に挿入されたために生じたのであると、認められるが、大陰唇の表皮剥脱は、恐らくは陰茎の挿入前に、手指による暴力的いたずらを受けた結果惹起されたものであると、考えるのが妥当である」とそれぞれ見解を述べている。

しかしながら、六歳の少女の陰部を手指を使って裂いたりすることなしに、その陰部に陰茎を押し当てて挿入することが不可能とまでいい切っている見解は見当たらず、これらの見解は、いずれも、陰茎の挿入が困難であるとか、被害者の高度な陰部損傷が陰茎のみによって生じ得ない、あるいは生じにくいとするものである。証人兼鑑定人鈴木完夫に対する裁判所の昭和四八年一〇月二三日付け尋問調書(検二)は、「陰部の損傷は成人男子の陰茎の半分が一回挿入されただけでもできると思う」と述べ、鈴木完夫の検察官に対する昭和五九年三月二九日付け供述調書の謄本(検四)は、陰部の三つの傷、膣入口から膣穹隆部にいたる裂創、膣腔周囲の卵型に皮下組織が露出した傷、右大陰唇の露出した皮下組織面に約一センチメートルの筋肉内に達する創傷のうち、前二者は人の陰茎でなされたからこその損傷と思われ、皮下組織の露出は、表皮が接触面の柔らかいもので巻き込まれるようになって剥離して生じ、被害者の膣腔に陰茎の亀頭部を没入させ、腰を使ったピストン運動が行われると、きしんで周辺のもろい表皮や結合組織を巻き込み大きな表皮欠損が生ずるし、大陰唇の筋肉内に達する約一センチメートルの創傷は、陰茎が無理に挿入された際に表皮から粘膜への移行部分が巻き込まれ、膣腔内に押し込まれた大陰唇の表面にひっぱりの力が加わり、そのために生じたと考えられるとし、三つ目の傷も陰茎によるとして説明がつくが、それと別に先端に爪がある手指で生じた可能性もあると述べ、牧角三郎教授作成の昭和六〇年二月一日付け鑑定書(検一〇)は、被害者の膣腔よりも遙かに大きく長い鈍体が挿入され、相当激しい擦過的かつ圧挫的な動きが加わることによって発生したと推定され、当時二五歳の成人男子の陰茎の挿入によって本件損傷が生じたとみることは可能であるとしている。鈴木完夫医師の説明は、解剖医としての体験例をも踏まえており、しかも、本件陰部損傷の成傷機転を具体的合理的に説明しているといえ、陰茎を本件損傷の成傷用器と考えて不自然ではない。

次に、被告人の司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付け供述調書(職四九)によると、「自分の大きくなった陰部を女の子のおまんこにあて右手で持って押しあて腰を使ってグッと差入れました。半分くらい入ったと思います。女の子はもがき乍ら、痛い、おかあちゃん、と力一杯泣くので、左手では押さえきれなくなり、私は構わず腰を使いましたが余り暴れるので思うように出来ず、私は、やっきりして、おまんこをやめて」というのであり、構わず腰を使ったとの意味は、いささか不明瞭なところもあるものの、腰の前後運動を繰り返したということを意味するとも解し得て、弁護人の主張は理由がない。

なお、弁護人は、被告人の自白調書中に挿入に併う陰茎の痛みや、陰茎の負傷に関する供述が欠如し、被告人の自白が不自然不合理で、その真実性に欠けると主張するが、陰茎が当然に負傷するか疑問があるうえ供述者に不利益な事実は、自ら進んで供述することが少ないのは無論のこと、追及されても容易に答えないことが多いであろうから、供述者に不利益な事実について、これが特異な事実に関するものであっても、自白調書に記載が見当たらないからといって、そのこと故にその自白調書の信用性が低下することは通常ないというべきで、陰茎の挿入に伴う痛みや負傷についての供述は強姦の激しさを意味するであろうから、被告人に不利益な事実と思われ、したがって、それについての供述が、被告人の自白調書中にないからといって、その信用性が低下するとは思えない。また、被害者の着用していた化繊緑色子供ワンピース裾裏に脱糞の付着があり、被告人の自白調書中に右のような特異な事実に関する記述がないことを弁護人は問題にしているが、脱糞の事実が強姦及び殺人の犯行中で特別な意味付けのあることとも思われず、右記述のないことをもって、自白調書の真実性が低下するとは思われない。

5  自白調書の信用性に関する検察官の主張

ここで自白の信用性に関する検察官の主張を総活的に検討する。

検察官は、まず第一点として、胸部損傷の成傷用器について、死体解剖を行った鈴木完夫医師がその剖検所見から鈍器とのみ判定され、それ以上の判定は困難であるとしていたこと、被告人の取調べに当たった相田兵市警部も、「従来捜査本部としては犯行手段として石で殴ったということは全然考えておらなかったが、被告人は石で殴ったと供述したわけです」「私共の最初の想定としては、傷の様子から棒のようなものではないかと考えていたが、本人が一握り半くらいの石でやったというので現場に行ったらあった」と述べ、被告人の供述により初めて尖った部分を有する石が凶器であることが判明したこと、捜査官が昭和二九年六月一日被害者の死体発見現場の実況見分を行った結果、被害者の死体の足があった位置から約1.25メートル下方の落葉上で本件石が発見され、死体のあったところを中心として半径三メートル以内に、本件石以外には下端約三分の一くらいが粘度質の土中に埋まった長さ二〇センチメートルくらい、径七センチメートルくらいの石一個があったのみであり、被告人は即日捜査官から押収された本件石を示されて、その犯行に使用した凶器であることを認めたことに加え、本件石が被害者の左胸部損傷の成傷用器としてほぼ完全に適合することを併せ考えると、本件石が、犯行に使用された凶器そのものと認められ、本件石に関する被告人の自白は、いわゆる秘密の暴露に当たると主張する。

しかし、右死体発見現場は大井川川原からそう遠くないところにあり、現場には土中にあったものの、長さ二〇センチメートル、径七センチメートルくらいの石もあり(司法警察員作成の昭和二九年六月一日付け実況見分調書・職一九)、本件のような石が右現場に存在したことは特異なことではない。また、石で人を殴るという行為も同様に特異とはいえず、被害者の左胸部に表皮剥脱を与えた鈍体を、石ではないかと推測することが困難とは思われず、このことは昭和二九年三月一四日付けの産業経済新聞の写し(検六六)に、被害者の死体発見状況が報道され、「死体の両足、左頬骨、左肋骨付近は石で殴られたように紫色となって落ちくぼみ」との記載があることでも納得のいくことである。さらに、法医学上、本件石が被害者の左胸部の成傷用器として適合する可能性が考えられるものの、なお成傷用器として断定し得るか疑問のあることは前述のとおりであり、これが凶器であるとの立証が尽くされていないから、被告人の自白に基づいて本件石が発見されたとしても、自白の信用性を高め得る「秘密の暴露」があるとはいえない。

次に、検察官は、第二点として、胸部を本件石で強打された直後の被害者の様子について、被告人が、「泣くのが止り、フーフーと息をしながら目をつむり唸っていました」と捜査官に述べていて、この部分は、被害者の死体に見られる特異な所見とも合致する心臓振盪等の臨床症状を示す極めて迫真性に富むものであり、捜査官の既得の知識に基づく誘導や押しつけによってもたらされ得るようなものでなく、体験者でなければ供述し得ない事柄を含んでいること、被告人の自白による本件犯行の順序は、まず被害者を姦淫し、次いで本件石で胸部を殴打し、最後に扼頸により被害者を窒息死するに至らしめたというものであり、陰部損傷及び胸部損傷のいずれもが被害者の生前かつ扼頸前に生じたものであり、その先後関係をみれば、陰部損傷が胸部損傷に先行したものであることは明らかであると主張する。

石で殴られた被害者が陥った状態に関する被告人の自白調書の記載に変遷があり、疑問のあることは前に述べた。また、被害者に心臓振盪が発生したと認定できないことも前述した。犯行の順序について、なるほど、被害者の胸部及び陰部の各損傷が死後の受傷とはみられないのではあるが、本件胸部損傷については、生前ではあっても扼頸前に生じたとの証明はなく、ただ、扼頸前に生じた可能性があるに過ぎない。

勝又義直教授は、その作成の昭和六二年九月一六日付け鑑定書(検一一一)において、被害者の左胸部損傷と左肺膨大出血部を統一的にとらえるためには、被害者が血圧の低下した状態で強い外力を胸部に受け、短時間後に死亡したとすることが最も自然な解釈であり、右血圧低下状態として、頸部圧迫による肺臓死の経過中の血圧低下がまずあげられるとし、また、頸部圧迫による窒息で通常認められる顔面の欝血、眼結膜の浮腫や欝血、喉頭粘膜の溢血点などが被害者になく、むしろ顔面、左右眼結膜、口唇は蒼白となっていて、このことは幼児や小児で比較的よくみられる鼻口部圧迫による窒息も死因に関与したことを示唆しているとも考えられ、一回の頸部圧迫により窒息が起こったというより、鼻口部を圧迫したり、頸部を圧迫したりするなどとされて陥った血圧低下状態で損傷を受けたとすると、生活反応の程度が弱く、とりわけ筋肉部では生活反応が認められ難かったことも不自然ではないと述べている。同教授は、被害者の特異な死体所見を説明することのできる一つの考え方を述べているわけであるが、検察官の主張する左胸部損傷の成傷機転によらなくとも、被害者の特異な死体所見を説明する考え方があり得るという点が重要である。しかも、それによると、左胸部損傷の時期は、頸部圧迫中あるいは圧迫直後ということになり、被告人の自白と大きく相違することになる。また、検察官が主張するように、被害者が、扼頸前に陰部損傷を受け、一次ショックを起こし、その後に胸部損傷を受けたと考えた場合、被害者は一次ショックによりその血圧が高度に低下し、出血しにくい程度にその状態が急変し、悪心、嘔吐、意識障害を招き、失神にさえ陥った可能性があるのに、被告人の自白によると、被害者はもがき泣いて暴れ、そのため強姦の目的が達せられそうもないと思ったというもので、その言動はショック状態に陥ったにしては、活動的であり、この点、被告人の自白は、被害者の死体にみられる特異な所見と整合するという一次ショックの臨床症状とは符合せず、虚偽の疑いがあるといわざるを得ない。

次に、検察官は、第三点として、被告人の、留置場係官松本義雄に述べた「大罪を犯しました」との発言、被害者の着衣を示された際、同様に取調官にした「あの時の様子が目に浮かんで怖くて見る気になりませんでした」との供述、取調官に「留置場の中にいても小さな女の子の声が聞こえると、私が殺した子供が生き返って話をしているような気がして夜等ねられません」との供述、勾留裁判官に対してした、犯行に及んだことを前提とするかなり詳細な供述、実兄に対する犯行の自認のほか、犯行当日被告人が被害者を快林寺本堂付近から連れ出すのを目撃した太田原松雄ら、被告人の自白する足取りを裏付ける多数の目撃者の供述があり、これらの相互に補完し合うことによって、被告人の自白の信用性を確固たるものとしているのであって、被告人が真犯人であることに疑いの余地がないと主張する。

目撃者の証言については後述する。検察官の述べる被告人の供述は、いずれも自白と同様の被告人の供述にすぎず、それによって自白の証明力が増減することがあるのは当然としても、右証明力は、本来は自白以外の他の証拠により認められる、より客観的な事実と対比して検討評価すべきものであり、被告人の供述の内容あるいは供述の態度からのみその証明力を判断することは危険である。このことは、前述のように、精神薄弱者又は心因反応に陥り易い者は被暗示性が正常人よりも強いといわれていること、被告人が軽度の精神薄弱者で、感情的に不安定であり、自分の主張が通らないと感情的になり、拘禁されるような環境に置かれた場合に心因反応を起こし易いと診断されていることを考えると、本件についてはいっそうあてはまるといわなければならない。

その他、右に関連して付言すると、左胸部損傷の成傷用器についても、他の問題がないわけではない。すなわち、検察官の主張によると、被害者の左胸部のわずか四センチメートルほどの長さで、しかも、幅が一センチメートルほどの間に、三回の打撃が集中しているのであり、このようなごく限られた範囲に強力な打撃が集中することは、偶然にしてはいささか不自然である。いいかえれば、一回の打撃により、多くとも二回の打撃により、被害者の左胸部損傷が生じ、その成傷用器は、本件石のような単鈍な形態でなく、一回又は二回の打撃で多数の表皮剥脱を生じさせ得る、より複雑な形状のものだったのではないか、また、肋骨に骨折がなく、骨膜の部位に一見してわかる損傷がないのも、右成傷用器が、本件石のように極めて硬いものではなく、もう少し柔らかいものであったのではないか、との疑問も払拭できない。

6  自白調書のその余の問題点

被告人の自白の概要はすでに述べたとおりであるが、その概要のみをみる限り、被告人の自白には、極めて不自然だとか、不合理だとする点はないように思われる。しかし、それを各調書について細かくみると、疑問な点も少なくない。

まず、その供述には微妙な変遷がある。被告人の検察官に対する昭和二九年六月一二日付け供述調書(職四二)によると、被告人は昭和二九年三月三日実兄宅を出てから、東に進み、東田子の浦で引き返し、実兄宅に戻って一泊したというものであるが、司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付け供述調書(職四九)では、東田子の浦方面から実兄宅に引き返したところ、兄が居て家に入れなかったと述べられていて、実兄宅に泊まっておらず、司法警察員に対する昭和二九年六月七日付け七枚綴り供述調書(職五七)では、家に兄嫁が病気で寝ており、家に入ったものの、晩になって実兄から叱られ、家に泊まらずに飛び出したと供述を三転させている。司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付け供述調書(職四九)では、実兄宅近くまで戻った後、島田市近郊の大津村、大長村、六合村を放浪して犯行に至ったと述べているが、司法警察員に対する昭和二九年六月九日付け七枚綴り供述調書(職五七)では、実兄宅に戻った後、再度東進して興津、由比町へ赴き、また引き返して犯行に至ったと述べており、三月三日以降犯行のあった一〇日までの間、由比町から東へ向った回数が一回から二回へと変化している。被告人は由比町でゴム半長靴を盗んだと述べているところ、司法警察員に対する昭和二九年六月二日付け供述調書(職五一)では、右半長靴を盗んだ時期を、実兄宅を立った三月三日ころといっていたものの、司法警察員に対する昭和二九年六月九日付け七枚綴り供述調書(職五七)では、犯行直前の八日で、実兄宅に戻ってから再度東進したときとなり、これが検察官に対する昭和二九年六月一二日付け供述調書(職四二)では、七日に訂正されて、検察官に対する昭和二九年六月一四日付け供述調書(職四四)で再び八日に戻っている。これらの供述の変遷は、被告人が当時浮浪者であり、各地を放浪していたことと、昭和二九年三月初めから三か月近く経過した後の五月下旬から翌六月上旬にかけて事情を聴かれたことから、正確に記憶を辿れなかったために生じたと一応説明できるが、不自然さを免れないところもある。

また、犯行当日の行動についてみると、司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付け供述調書(職四九)では、幸町公会堂を通り、快林寺へ入ろうとすると草色の戸が閉めてあり、入れなかったとあるが、司法警察員に対する昭和二九年六月二日付け供述調書(職五一)では、草色の戸が閉めてあるだろうなあと思っただけで、引き返えしたと変化している(証人五藤大善に対する裁判所の昭和三三年一一月五付け尋問調書・職一七八によると、快林寺の草色の戸は毎日午前七時か七時半には鍵をはずされていて、被告人が快林寺を訪れたという時間には鍵があいていた)。司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付け供述調書(職四九)では、子供を背負い蓬莱橋を渡り、坂の登り口付近で子供の履いていた駒下駄を手に持ったと述べているが、司法警察員に対する昭和二九年六月二日付け供述調書(職五一)では、子供の下駄は子供を背負う度ごとに、手に持ったと述べ、蓬莱橋を渡る前に子供を背負い、そのまま山の中に入ったと供述を変えている。司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付け供述調書(職四九)では、最初に子供のズロース二枚を取り除き、続けて緑色の上着を引っ張り取って脱がせ、その下のセーターを捲り上げる等したとあるが、検察官に対する昭和二九年六月一三日付け供述調書(職四三)では、まず、緑色の洋服を頭の方に捲り上げ、その下の下着類を同様に捲り上げあるいは脱がせ、最後に二枚のズロースを脱がせたと述べ、脱がせた服の順序を変えている。司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付け供述調書(職四九)では、子供の衣服を脱がせる前に自分のズボンを下げたと述べていたが、検察官に対する昭和二九年六月一二日付け供述調書(職四二)では、子供の衣服を脱がせた後に自分のズボンを下げたとしている。司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付け供述調書(職四九)では、子供を殺した後、子供のズロースで自分の性器に着いた血を拭いたように思うと述べていたが、司法警察員に対する昭和二九年六月二日付け供述調書(職五一)では、性器を子供のズロースで拭いてはおらず、そのまま褌の中に入れ、褌は富山県か岐阜県のバスの通る道で、虱がたかったので捨てたと述べ、検察官に対する昭和二九年六月一七日付け供述調書(職四七)では、その褌は四月下旬ころ名古屋駅の便所に捨てたとしている。さらに、司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付け供述調書(職四九)で、石で殴った子供が、フーフーと息をして唸り出し、気持ちが悪くなって、いっそ殺してしまえと思い、両手で子供の首を絞めたと、殺害の動機を述べながら、検察官に対する昭和二九年六月一三日付け供述調書(職四三)では、石で殴った子供が騒ぐのをやめ大きな息をしながら唸り出したので、このままにして置けば見付かってしまうと思い、いっそのこと殺そうと思い至ったというもので、その供述内容の変更はいささか問題があるといえる。

結局、被告人の自白は、自白した時期からして、記憶に曖昧なところがあっても、おかしくないといい得るところがあるものの、やや不自然な変遷を示している部分もあり、特に殺人の動機に関する供述の変化は、その点の説明が欠落し、自白の信用性に疑問を投げかけているといえる。

次に、被告人の自白は他の客観的な証拠と矛盾しているところもある。被告人の検察官に対する昭和二九年六月一二日付け供述調書(職四二)は、三月五日に実兄宅に泊ったと述べ、被告人の司法警察員に対する昭和二九年六月九日付け七枚綴り供述調書(職五七)は、実兄宅に寄った際兄嫁が病気で寝ており、兄嫁の母親が手伝いに来ていたとしているが、確定第一審の第五回公判調書中の証人赤堀一雄(職三八)及び同赤堀ムツミ(職三九)の各供述部分並びに証人竹村よしに対する裁判所の昭和三三年一一月五日付け尋問調書(職一八〇)によると、被告人は昭和二九年三月三日以降一〇日までの間、実兄宅に泊ったことはもちろん、立ち寄った事実も認められず、また、同月中に被告人の兄嫁の母親が被告人の実兄宅に兄嫁の看病のため手伝いに来た事実はないと認められる。被告人の司法警察員に対する昭和二九年六月二日付け供述調書(職五一)は、三月六日の午後五時ころ用宗から汽車で島田に着いた折(被告人の検察官に対する昭和二九年六月一二日付け供述調書・職四二では三月五日)、兄の友人で駅員の内藤善一に会ったというが、確定第一審の第七回公判調書中の証人内藤善一の供述部分(職七三)によると、同証人は、被告人の実兄と懇意にしていて、被告人をよく知っており、警察から事情を聞かれた際、三月六日に島田駅ホームで被告人と会ったことがあると述べたが、誤りであり、勤務表、駅日誌を調べたところ、六日は朝八時半から翌朝の八時半まで島田駅構内西よりの東海パルプに近い方の踏切の警手をしており、島田駅ホームで被告人と会うはずもなく、また、五日と七日は非番であり、被告人を駅ホームで見掛けたのは昭和二八年と思うと述べている。被告人の司法警察員に対する昭和二九年六月九日付け七枚綴り供述調書(職五七)では、三月一二日は日坂から夕方島田に帰って静岡大学島田分校寄宿舎裏の農小屋に泊ったと述べているが、この点は後述のように、被告人は大磯地区警察署で事情聴取を受けていて、明らかに事実と異っている。

7  被告人の自白の信用性

これまで検討してきたところをまとめると、被害者の胸部及び陰部の各損傷の時期は、いずれも生前であること、胸部損傷の成傷用器が本件石である可能性があり、陰茎によって陰部損傷が生じたと考えて不自然でないことが、いずれも認められるが、なお、左胸部損傷の成傷用器が本件石だとすると肋骨の骨折あるいは骨膜部位に何らかの損傷が生じるのではないかとの疑問を捨てきれず、被害者の死体が窒息死体としては特異な状態であり、これを陰部からの出血又は一次ショックにより説明すると、被告人の自白中に右ショック症状と矛盾する事実の記載があり、さらに、右自白はいくつかの確実な事実とも相反し、その変遷が少なくなく、また、被告人が捜査官らに示した犯人であることを窺わせる言動も、被告人が軽度の精神薄弱者で、心因反応を起こし易く被暗示性が強いとすると、重大視することはできず、結局、次の項に述べるアリバイに関する事実を考慮しても、被告人の自白の信用性は低いといわざるを得ない。

三  アリバイ

弁護人は、被告人が昭和二九年三月三日島田市内の実兄赤堀一雄方を出て職探しのために上京し、三月六日夕刻から東京都内にいて、本件犯行日とされる三月一〇日朝方都内中央区日本橋本石町の常盤公園から神奈川県横浜市に向かい、同夜は同市保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町の外川神社に泊っており、その後西下し、一二日夜は大磯地区警察署で事情聴取を受けており、被告人にはアリバイがあると主張する。

弁護人の右主張をその論拠を含めてさらに詳述すれば、次のとおりである。すなわち、被告人は昭和二九年三月三日同居中の実兄から職を探すよう諭され、島田市の実兄方を出た。国鉄東海道線を利用して島田駅から静岡駅まで行き、後は徒歩で由比町に至った。由比駅で、持参していた風呂敷包を実兄方に郵送し、同夜は東田子の浦駅西方の稲荷神社で過ごした。四日、徒歩で東海道を一五メートル東進し、駿東郡清水村長沢の智方神社に至り、神社拝殿の濡れ縁の下に泊った。五日、物貰いをしながら熱海を経由し、小田原市酒匂の酒匂橋から約四〇〇メートルの海岸で火を焚いて夜を明かした。通りかかった婦人に「今晩は風が強いから気を付けるように」といわれた。横浜測候所の観測記録によると、同夜の風速は秒速6.7ないし10.5メートルである。六日、物貰いしながら平塚まで歩き、湘南電車に乗り、東京駅を経て上野駅に到着した。平塚駅を出るときと、上野駅へ着いたときは雪が降っていた。雪は七日の朝まで降ったが、積もらなかった。七日付けの朝日新聞は「七日朝の東京は雪まじりの雨。前夜から関東地方一帯に降りつづいた雪も、山沿いを除いては積もらずに消えた」と報道している。被告人は、上野駅地下道を徘徊し、知り合った若いバタ屋と上野駅舎で寝た。七日、上野駅裏にある映画館で高橋貞二主演の映画「濡れ髪の権八」を上映中の看板を見た。この映画館は「上野松竹映画劇場」であり、右映画は三月三日封切りで同月一五日まで上映されている。また、右映画館の隣では別の映画館の建設工事が行なわれていた。七日ないし九日は、上野から神田近辺において鉄屑などを拾い集め、神田駅付近の国鉄ガード脇で資源回収業を営む藤田正男方に売却し、東京都中央区日本橋本石町の常盤公園などに寝泊りした。右映画、工事現場、藤田方及び常盤公園の様子など、何れも被告人の図示しあるいは供述した内容と事実がよく合致している。被告人は、一〇日、一人で常盤公園から徒歩で東京駅、品川を経て、深夜神奈川県横浜市保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町の外川神社に到着し、そこに泊った。昭和二九年三月当時の神社の様子は被告人の述べるところと一致している。一一日は物貰いしながら西下し、同県藤沢市藤沢の妙善寺内正宗稲荷に泊った。一二日は、茅ヶ崎駅付近で浮浪者岡本佐太郎と知り合い、同夜同県大磯町高麗の稲荷神社で焚火中、大磯地区警察署に連行され、事情聴取を受けた。被告人を取り調べて、釈放した山本警部は、被告人らが西方へ赴くのを確認している。なお、被告人は二〇日、掛川の西小笠警察署に出頭し、どこにも行くところがないので刑務所に入れてくれるよう求めているが、真犯人であればあり得べからざる行動である。以上がアリバイの具体的な内容である。

被告人の具体的なアリバイ供述は、昭和二九年七月の確定第一審第一回公判から約一年後の昭和三一年一月一六日付け上申書(職八三)でなされ、詳細な供述が同年四月の第一〇回公判及び同年九月の第一二回公判で行われている。被告人の供述とその余の証拠とを突き合わせてみると、まず、昭和二九年三月三日東海道本線の由比駅で、荷送人を被告人とする小荷物が預けられ、翌日赤堀一雄方に配達されたことは、石間三千雄の司法警察員に対する昭和二九年五月二六日付け供述調書(職七)により認められる。同月三日の夜過ごしたという東田子の浦西方の吉原市柏原新田の稲荷神社は被告人作成の前記上申書や昭和三一年五月九日付け図面(職九五の図面一三枚中の「三月三日の夜東田子の浦で泊りましたお宮です」との記載のある一枚)とその述べる所在場所が一致するほか、確定第一審の受命裁判官が現場を検証した昭和三一年一〇月二三日に存在した祠は、昭和二九年三月三日当時の祠と異なるとの被告人の説明(受命裁判官の昭和三一年一一月一〇日付け検証調書・職一〇七)も、右祠が昭和二九年三月の何日かに造り替えられた事実(確定第一審の第一五回公判調書中の証人鈴木兼作の供述部分・職一二八)とほぼ合致する。同月四日に駿東郡清水村長沢の智方神社の縁の下に寝たとする説明も、被告人作成の昭和三一年五月九日付け図面(職九五の図面一三枚中の「三月四日泊った三島の大きなお宮及び其の附近」との記載のある一枚)から一貫し、また、被告人の説明するところと智方神社の様子が一致し、受命裁判官による昭和三一年一〇月二三日の前記検証時に智方神社神殿外側に張られていたトタン板が昭和二九年三月四日当時には張ってあったかどうか覚えがないとの被告人の説明も、右検証の立会人のトタン板がなかったとする説明と矛盾するところがない(受命裁判官の昭和三一年一一月一〇日付け検証調書・職一〇七)。昭和二九年三月五日、被告人が泊ったという神奈川県小田原市酒匂の海岸に小屋が存在したものの被告人は昭和三一年一〇月二四日の検証の際特定できなかった(受命裁判官の昭和三一年一一月一〇日付け検証調書・職一〇七)が、昭和二九年当時は付近の小屋にルンペン風の人が寝たりすることがあったし、当時と昭和三一年の検証時とでは建物の数、様子なども異ってしまった(証人中越弘の受命裁判官に対する昭和三〇年一〇月三〇日付け尋問調書・職一〇六)とのことである。横浜測候所長作成の昭和三二年三月四日付け気象状況照会回答書(職一二〇)によると、昭和二九年三月五日夜は横浜測候所の観測で風速6.7ないし10.5メートルを記録したこともあるが、これ以上の風速が観測された日も他に多くあり、この点に特別の意味があるとは認められない。昭和二九年三月七日付けの朝日新聞夕刊(弁三三中の一部)によると、弁護人主張のような新聞報道があったことが認められるが、この点については後述する。〈証拠〉によると、被告人が寝たという上野駅及び常盤公園等の様子、上野駅裏に映画館があって、高橋貞二主演の映画「濡れ髪の権八」が昭和二九年三月三日から同月一五日まで上映されており、この映画館の隣では別の映画館の建設工事が行われ、その工事の模様が被告人の供述する内容と一致している部分があり、被告人が鉄屑などを売却したという藤田方の様子も被告人の供述あるいは図示するところとおおむね一致している。〈証拠〉によると、被告人と浮浪者岡本佐太郎が、昭和二九年三月一二日の晩神奈川県大磯町高麗の稲荷神社で小火を出し、大磯地区警察署で事情聴取を受け、翌一三日午前八時半過ぎころ釈放されたが、右事情聴取の際、二人が茅ヶ崎の消防署前で会い、被告人がこれから静岡方面へ行くと述べ、署から西方へ歩いて行ったことが認められる。もっとも、被告人らが茅ヶ崎のより東方から来たかについて、大磯地区警察署の山本典太警部は、被告人が東の方から西の方へ行くといっていたとの記憶があるが、同署千田啓巡査部長は、被告人が静岡の方から物貰いして来たといっていたとの記憶があり、明確ではない。なお、証人塚本清一に対する裁判所の昭和三三年一一月七日付け尋問調書(職二〇一)によると、昭和二九年三月二〇日、被告人が窃盗したといって静岡県掛川の西小笠地区警察署(現在の掛川警察署)に出頭し、何処にも行くところがないから刑務所へ入れてくれといっていたことが認められる。

このように検討すると、被告人のアリバイ供述は多くの点でこれを裏付ける事実があり、その信用性は低くなく、特に被告人が昭和二九年三月の何日かに東京にいた事実はおそらく正しいであろうし、同月一二日神奈川県大磯町にいた事実は動かない。

しかしながら、被告人の供述にはいくつかの疑問点がある。

まず、被害者が殺害された昭和二九年三月一〇日、すなわちアリバイとして最も重要な日とその直後の宿泊場所に関する被告人のアリバイは必ずしも明確ではない。被告人は、裁判所の要請を受け、被告人がアリバイとして述べる昭和二九年三月三日から同月一三日まで泊った場所などの様子を記載した昭和三一年五月九日付け、同月一〇日付け及び同月一一日付けの合計一三枚の図面(職九五)を作成したが、昭和二九年三月一〇日と一一日に泊ったとする場所は、その周囲の状況も含めて、他の図面と比較し格段に簡略であり、果たして被告人のいうとおり、その場所に宿泊したのか疑問を生じさせるものである。また、右図面作成後の昭和三一年七月二五日に、被告人立会いのうえ、被告人が東京都内で泊まったという東京都中央区日本橋の常盤公園付近と上野駅付近で検証が行われ(裁判所の同年八月一八日付け検証調書・職九六)、その直後の同年七月三〇日付け上申書(職一二六)で、横浜駅より戸塚へ行く途中で国道の左側に沿った二つ目のお宮が三月一〇日に寝た所だと記載した、やや詳しい図面を作成したが、この点について、被告人は、昭和三一年九月一一日の確定第一審の第一二回公判(職一〇三)において、右訂正したお宮が七月二五日の検証の際に乗った汽車の中から見え、紙と万年筆を借りてその時思いだしたことを忘れないように記載し、このとき書いた紙を見ながら七月三〇日付けの図面を作成したと供述しており、疑惑を招くものと思われる。さらに、被告人は、昭和三一年一〇月二三日から二五日にかけて行われた受命裁判官の検証に立会い、昭和二九年三月一〇日寝た場所として、神奈川県横浜市戸塚区平戸町の光安寺を指示し、実際の休んだ地点として境内の六地蔵尊前を指示した(受命裁判官の昭和三一年一一月一〇日付け検証調書・職一〇七)が、右指示は被告人作成の右いずれの図面とも様子が合致しない。被告人は、その後の昭和三四年四月二四日付け上申書(職二四九)で、一〇日夜は保土ヶ谷と戸塚間の国道から左に路地を入ったお寺の地蔵堂の前で南京袋にくるまって夜を明かしたと述べ、昭和三四年一二月二六日付け上申書(職二七九)では、六地蔵前で寝る姿を図解し、そのほかにも同様の記載あるいは図入りの上申書を作成し、昭和二九年三月一〇日に寝た場所が右光安寺であると繰り返し主張している。しかし、そこはお宮ではなく、被告人が従前供述しあるいは図示していたところとかけ離れているといわなければならない。

ところで、再審請求の段階になって、弁護人は、被告人が昭和二九年三月一〇日泊まったのは神奈川県横浜市保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町の外川神社であると主張し、被告人も、確定第一審の検証の際、横浜方面から戸塚方面へ向かう車中で、自分の左側に体の大きな刑務官が乗っていたため進路左側が見えず外川神社を発見できずに通り越してしまい、そして、折り返して探しに行くのも大変だし、阿部検事から「ここじゃないか」としっこくいわれたので光安寺を三月一〇日夜に泊まった場所ということで特定してしまったと弁解供述するに至った(被告人に対する裁判所の昭和四九年一二月二〇日付け尋問調書・弁二八)。しかし、被告人は、昭和三一年七月三〇日付け上申書(職一二六)で、横浜駅から戸塚に至る東海道の両側には家並があり、東海道から左折して真っ直ぐな路地に入ると、二つのお宮が正面と右側にあった旨を図示し、確定第一審の第一二回公判調書中(職一〇三)で、突き当りのお宮の入口は格子戸で錠前が掛かっていたこと、裁判所の昭和四九年一二月二〇日付け尋問調書(弁二八)で、東海道から少し入った所に大きな鳥居があったことを供述しているが、証人芹田孝一に対する裁判所の昭和四五年六月二六日付け尋問調書(弁二)及び裁判所の同年七月一四日付け検証調書(弁三)によると、外川神社と東海道との間には、被告人作成の前記図面中に記載のない川があって、そこに橋が掛かっており、外川神社付近では東海道の川側には家並がなく、昭和二九年三月当時東海道から橋を渡って右側に道祖神に行く真っ直ぐな参道と、正面に外川神社拝殿に至る途中右に折れ曲った参道があり、参道右に稲荷があって、被告人の図示したところと建物の配置あるいは参道の形状が異なり、さらに、神社拝殿は格子戸になっているものの錠前がなく、道祖神は錠が掛かっているものの格子戸になっておらず、東海道沿いにあった鳥居は昭和二九年三月当時はすでに取り去られていたというのであり、被告人が図示しあるいは供述するお宮と外川神社が一致するとは思えない。

次に、被告人は確定第二審が昭和三四年七月九日に行った検証に際して立会い、昭和二九年三月一一日寝た場所として神奈川県藤沢市藤沢の妙善寺内正宗稲荷を指示したが、そこは寺院山門横の稲荷堂であって、拝殿と本堂に別れ、拝殿は濡れ縁で囲まれた大きなお宮であり(裁判所の昭和三四年七月一七日付け検証調書・職二五三)、被告人が昭和三四年四月二四日付け上申書(職二四九)で主張していた小さいお宮とは致底いえず、被告人が昭和二九年三月一一日に泊まったところが右妙善寺内正宗稲荷と認めることは疑問である。

次に、被告人は、東京への往路とその際の気象状況に関し、確定第一審の第一二回公判廷において昭和二九年三月五日熱海、鴨の宮間でひどい雨にあったと供述している(確定第一審の第一二回公判調書中の被告人の供述部分・職一〇三)が、網代測候所長作成の昭和三二年三月一日付け気象状況照会回答書(職一一九)によると、昭和二九年三月五日午前六時から午後六時までは曇午前中一時小雨で、同日午後六時より翌朝六時までは曇早朝より雪と記録されているだけで、また、日本気象協会の観測原簿四通の写し(弁二五)によっても、被告人のいう「ひどい雨」という供述は裏付けられない。

また、被告人は、確定第一審の第一〇回公判で、六日に平塚を出た時刻は午後二時近かったこと、上野駅に着いたのは午後四時をまわっていたことを供述し(職九二)、確定第一審の第一二回公判で「平塚から切符を買って出る時、それから上野に着いた時、雪が降って居り、七日の朝まで雪は降って居りました。積もるような雪ではなく直ぐ融けてしまいました」と供述し(職一〇三)、再審請求審に対しても同様の供述をしている(被告人に対する裁判所の昭和四九年一二月二〇日付け尋問調書・弁二八)。さらに、被告人の昭和五一年一一月ころ作成の手紙の写し(弁二二)では、昭和二九年三月六日昼前ころから曇り、雪が降り出し、雪は七日朝夜明けころにはやんだこと、六日午後一時過ぎ、平塚駅から湘南電車に乗り東京で一旦下り省線電車で上野駅で下車したが、雪はずっと降っていたこと、町の中は雪がたくさん降り積もり銀世界だったことを記している。しかし、日本気象協会の観測原簿四通の写し(弁二五)中の東京に関する天気概況を記載した表によると、昭和二六年三月六日午後一時から午後八時までは降雪がなく、被告人が上野へ着いた時間である午後四時過ぎころは曇である。なお、弁護人が提出した昭和二九年三月七日付け新聞三部(弁三三)中、日本経済新聞朝刊は午後八時五〇分から、毎日新聞朝刊は同日午後九時ころから東京付近に雪が降ったと報道しており、いずれにしても被告人の供述と合致していない。

以上のほかに、被告人の供述する三月三日から上京するまでの各日の行程に非常な差のあること、特に三月五日の約六〇キロメートル余りの行程は、途中熱海峠を越えていることを考えないとしてもいささか距離がありすぎること(受命裁判官の昭和三一年一一月一〇日付け検証調書・職一〇七)、その他、すでに検討したとおり、三月一〇日、一一日の宿泊場所に関する被告人供述は変転し、天候に関する供述も事実と正確には一致せず、不自然な点が多くその供述の信用性には疑問がある。

一方、被告人の実兄宅の近隣に居住していた小山睦子は、昭和二九年三月当時小学四年生であったが、同年一月ないし三月の第三学期中で父親が山に仕事に行き、家をあけて四日くらいした日に、学校が終った後の午後四時半か五時ころ、島田市内で被告人と会い、荷物を預かり、被告人の実兄宅に持って行き、被告人の兄嫁赤堀ムツミに渡したと供述している(確定第一審の第一七回公判調書中の証人小山睦子の供述部分・職一三九)。被告人も昭和二九年中に同証人に荷物を預けて実兄宅に届けてもらったことは認めている(確定第一審の第一八回公判調書中の被告人の供述部分・職一四七)。〈証拠〉によると、右小山睦子の父親である小山政治は、昭和二九年一月から同年三月までの間何回か山へ仕事に行っているが、泊まり掛けで、しかも連続して二泊以上したのは三月六日から二七日までの一回だけであり、かつ、昭和二九年四月以降山へは行っていないというのであり、右三月の山での仕事は、小山政治の雇主である野木鉄次の供述あるいはその人工帳とも一致し、信用性の高いものである。これらによると、小山睦子は、昭和二九年三月六日から四日ほどしたある日に、すなわち被害者が殺害されたころに、島田市内で被告人を見掛け荷物を預かったことが認められることになる。なお、弁護人は、野木鉄次の司法巡査に対する昭和三二年五月一八日付け供述調書(職一四五)によると、三月一一日と二〇日に小山政治が仕事を休んでいて、このとき同人が下山し家族と面会した可能性があるというが、右供述調書をそのような趣旨に読みとることは困難であるし、小山政治が昭和二九年三月一一日付けと同月二〇日付けで山から家族宛てに葉書を出していることが明らかで(昭和六二年押第一一〇号の二一の二、三)、理由がない。これに対し、被告人は、小山睦子に荷物を預けて、兄の家に届けてもらったことはあるが、それは昭和二九年一月二一日ころである旨供述し(確定第一審の第一八回公判調書中の被告人の供述部分・職一四七)、また被告人の兄嫁である赤堀ムツミは、小山睦子から被告人の荷物を預かったのは、同年二月二八日であって、このことは、同証人が当時つけていた日記の記載により喚起された記憶に基づくものである旨供述している(確定第一審の第一九回公判調書中の証人赤堀ムツミの供述部分・職一五二)。しかしながら、被告人の右日時に関する供述は、その記憶の拠りどころとなる事実があいまいであり、その後昭和三四年五月二六日付け上申書(職二五一)で二月二八日と主張を換え、にわかに信用しがたく、また赤堀ムツミのいう昭和二九年二月二八日は日曜日であって、小山睦子が帰校後被告人から荷物を預かったという供述と相容れない。

結局、被告人のアリバイ供述中、昭和二九年三月一〇日ころに島田市内にいなかったとの部分は、その信用性に疑問があり、小山睦子らの供述とも相反して信用できず、理由がない。

四  被告人と犯行を結び付ける証拠

ここで、被告人の自白以外に被告人を犯人と認め得る証拠がないか検討しておく。

〈証拠〉によると、田代いと、橋本富美子及び櫻井ゆきは、昭和二九年三月一〇日午前一一時過ぎころ、快林寺の幼稚園遊戯会において、見知らない髪をボサボサにした二〇歳代の中肉中背の男が幼児の遊戯を見ていたことを、太田つや子は、快林寺境内で売店の係をしていた際同様の男に食べ物を売ったことを、鈴木鏡子及び太田原松雄は、いずれも幼稚園児であり、昼ころ見知らない青年が被害者に声を掛けて被害者を連れて行ったことを、中野ナツ、長谷川睦及び小林和夫は、快林寺から国鉄島田駅を通り大井川堤防付近までの道路上で、若い男が被害者を連れて歩いていたことを、橋本秀夫、橋本すえ及び松野みつは、幼女を連れた若い男が大井川川原あるいは堤防上を歩いていたことを、鈴木鉄藏は、蓬莱橋たもとで橋銭を払わないで、幼女を背負った若い男が橋を渡って行ったことを、曽根佐一は、同日の晩、蓬莱橋途中で目付の鋭い若い男が佇んでいたことを、それぞれ目撃したことが認められる。

このように、犯人らしい者を目撃した者が多数いるわけであるが、このうち被害者を連れていた男が被告人であることを明示している供述がある。

まず、確定第一審の第三回公判調書中の証人太田原ます子の供述部分(職二四)によると、同証人は、昭和二九年六月六日、犯人面通しのため同証人の孫松雄を連れて島田市警察署に行ったとき、裏口付近でたまたま被告人と出会った松雄が「アッ、あの人だ」とはっきりいって被告人を指示し、署内で二度目に被告人を見たときも、松雄が「あのお兄さんだ」といった旨述べている。なお、太田原松雄本人は、確定第一審の第九回公判において、昭和二九年三月一〇日快林寺の幼稚園で被告人らしい男が被害者に菓子を買い与えたこと、同年六月ころ警察署で被告人を見せられ、被害者を連れ出した男と似ていると思ったことの各記憶はあるが、被害者がその男と一緒に幼稚園から出て行ったかどうかは今では憶えていないと供述している(職八七)。また、確定第一審の第二回公判調書中の証人鈴木鉄藏の供述部分(職一二)によると、同証人が目撃した被害者を連れた男が被告人とよく似ていたとの供述があり、証人鈴木鉄藏に対する裁判所の昭和三三年一一月五日付け尋問調書(職一七四)によると、警察で被告人を見せられ、その横顔を見て、橋を渡ろうとした男に間違いないと思ったと供述している。このほかにも、被害者と思われる幼女を連れた男が被告人によく似ていたとする供述(確定第一審の第二回公判調書中の証人中野ナツの供述部分・職一〇)や、被害者が連れ去られる前快林寺で見掛けた男が被告人と似ていたとの供述(証人櫻井ゆきに対する裁判所の昭和三三年一一月六日付け尋問調書・職一八七)もある。しかし、被害者が連れ去られる直前に被害者と遊んでいて、犯人らしい男から被害者と同様に声を掛けられ、したがって、太田原松雄より犯人らしい男と間近で接している鈴木鏡子が、被告人の写真を見せられた際、犯人と違うと述べており(証人鈴木きんに対する裁判所の昭和三四年七月一七日付け尋問調書・職二五六)、また、被害者を連れていた男とすれ違った長谷川睦は、警察で事情を聴かれた際、違うとはっきりいわなかったが、被告人と右男は違うような気がすると供述している(確定第一審の第一四回公判調書中の証人長谷川睦の供述部分・職一一二)。被害者を連れていた男の服装などについて、各目撃者が述べることは必ずしも一致していないが、その男は、色の白い身綺麗な人だった(確定第一審の第二回公判調書中の証人中野ナツの供述部分・職一〇)、着ているものは鼠色の背広服で、勤め人のように見えた(中野ナツの司法警察員に対する昭和二九年三月一二日付け供述調書・職二六五)、服装は汚れているという感じがしなかった(確定第一審の第一四回公判調書中の証人長谷川睦の供述部分・職一一二)などと、犯人像を述べるものがある。結局、同一人を、さして間をおかずに目撃した何名かの者が、その服装、風体を様々に供述していること自体は、人の記憶の曖昧さを示しており、それらの供述すべての信用性がさして高くないことを示しているといわなければならない。被告人をよく知っているものが、被告人を目撃したと供述しているわけではないのであり、被告人が被害者を連れていた男らしいとする鈴木鉄藏らの前記各供述が、これらの中で特に信用できるとはいえない。また、右各目撃者はいずれも被害者が快林寺から連れ出される前後の、あるいは快林寺から蓬莱橋を渡るまでの間に、被害者を連れていた男に関するもので、犯行自体を現認しているものではない。さらにいえば、被害者を連れていた男が汚い格好であったとか、浮浪者のように見えたとか、綺麗な服を着た被害者(確定第一審の第二回公判調書中の証人松野みつの供述部分・職一一)を連れている男に不審を感じたとかいう者が、ほとんどいないという事実は、被害者が連れ去られた翌々日の三月一二日に大磯地区警察署で事情を聴かれた際の被告人が、鉄屑を少しと、お金もバラ銭合計六、七〇円しか持っておらず、一見して浮浪者とわかる垢じみた格好で、髪をぼさにしていた事実(確定第一審の第五回公判調書中の証人千田啓の供述部分・職四〇)を対比させると、被害者を連れていた男が被告人でない可能性をも暗示していると思われる。

結局各目撃者らの供述は、本件当日被害者を連れて歩いた犯人と思われる男の足どりや、体格が被告人に類似することなどを示すだけで、被害者を連れていた男と被告人との同一性について疑義をいれる余地のないほど確実性のあるものとは認められず、加えて各目撃者らは本件の犯行それ自体を現認していないのであるから、これら目撃者の証言だけで被告人を本件の犯人であると認定することはできない。

なお、右のほか従前問題点とされたところを簡単に触れると、以下のとおりである。

大井川川原に犯人のものと推定される足跡が残されていたことは前述した。この足跡は石膏にとられ証拠(昭和六二年押第一一〇号の二七、二八)として提出されているが、足跡が残されていた川原が砂地であり、被害者が連れ去られた翌日の三月一一日に大雨が降っていて、その形状は必ずしも明瞭でなく、一方被告人が三月一〇日ころ覆いていたというゴム半長靴は発見されていないため、大井川川原の足跡との相違は明らかでなく、被告人と犯人との同否の判定に右足跡を利用することはできない。

〈証拠〉によると、本件石(昭和六二年押第一一〇号の一〇)には、血液の付着はないと判定されている。もっとも、本件石が確定審による領置後三〇年以上を経過し、証拠品として保管されている間にも多数人が手で触れ、あるいは鑑定の際、アルギン酸印象剤を塗って石膏の型をとる措置を施していることなどの諸点を考慮すると付着した血液が何らかの原因で検出できなくなった可能性も否定できない。いずれにしても、本件石で被害者の胸部が殴打されたか否かは不明である。

〈証拠〉によると、本件石が発見押収されたのと同じ日である昭和二九年六月一日に被告人からその着用の中古鼠色セルジャンパー一着(昭和六二年押第一一〇号の一一)の任意提出を受け、同日これを領置していること、同月三日には曽根一郎から、被告人が犯行当時着用していたとされるチャック付きジャンパー一着(同押号の一二)、浅黄色ズボン一本(同押号の一三)ほか三点の任意提出を受け同日これらを領置していること、そして、右中古鼠色セルジャンパー一着、チャック付きジャンパー一着、浅黄色古ズボン一本は同月七日付けをもって、「血痕付着の有無、付着するとしたら人血か否か、人血であればその血液型、精液付着の有無、付着するとしたらその血液型及び病原菌の有無」をそれぞれ鑑定事項とし、当時の国家地方警察技官医師鈴木完夫に対して鑑定嘱託をなし、同人は同月二九日付けで鑑定書(職二二)を作成していること、右鑑定によると、浅黄色ズボンにO型と思われる人血の反応を認めたが、O型と断定しておらず、その余のものに、人血あるいは精液の付着は証明できなかったことが認められる。

また、再審公判裁判所により鑑定を嘱託された原三郎教授によると、右浅黄色ズボン一本に血液の付着は認められず、被害者の着用していた化繊緑色子供ワンピース一着(昭和六二年押第一一〇号の四)に人血の付着は認められたものの、O型又はA型の可能性が考えられるにすぎず(原三郎教授作成の昭和六三年二月八日付け、同月二二日付け及び同月二七日付けの各鑑定書・職二九〇ないし職二九二並びに再審公判の第六回公判調書中の鑑定人兼証人原三郎の供述部分・職権取調べの証人番号一、同二)、結局、血液型の対照からは、被告人が犯人か否かの推定はできない。

このように、本件においては、被告人の自白調書以外に犯行と被告人を結び付ける証拠に乏しく、右自白調書を除くと被告人と本件犯行を結び付けることのできる証拠はない。

第四  結論

以上の次第であって、本件では、被告人の自白調書以外に犯行と被告人を直接結び付けるに足る証拠がなく、被告人の自白調書も、その変遷が少なくなく、不自然あるいは客観的事実に反すると思われる供述が含まれているばかりか、再審公判における検察官の補充立証にもかかわらず、本件石を成傷用器とするには、なお幾多の疑問が残り、被告人の自白に基づいて本件石が発見されたとしても、自白の信用性を高め得る「秘密の暴露」があるとみることができず、また、被害者の死体にみられる特異な所見と整合するという一次ショックの臨床症状が被告人の自白と符合しているともいうこともできず、そのうえ、被告人の資質上の特性を考慮すると、被告人が捜査官らに示した犯人であることを窺わせる言動も重大視することができないのであって、他に自白の信用性を裏付ける確実な事情が認められない限り、被告人の自白が虚偽ではないかとの疑いを拭いきれず、被告人の自白は信用性に乏しいと判断される。したがって、被告人に対する本件公訴事実については、その証拠が不十分であって、犯罪の証明がないことに帰着するから、刑事訴訟法三三六条により無罪の言い渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官尾﨑俊信 裁判官髙梨雅夫 裁判官櫻林正己)

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